ミニシアター再訪

プロローグ

日本で“ミニシアター”という言葉が生まれたのはいつからだろう? おそらく1980年代からではないかと思う。文字通り訳せば“小劇場”という意味で、キャパシティの小さい映画館のことをさすのだろうが、大人数が収容できるロードショー館を小さくした劇場という意味ではない。

また、一度、ロードショー公開された映画を再上映する名画座とも役割が違う。“ミニシアター”はロードショー館や名画座とは違う役割を背負っていた。そんなミニシアターとは何だったのか?

近年、東京ではミニシアターの閉館が続いている。2011年には恵比寿にあった恵比寿ガーデン・シネマや渋谷にあったシネセゾン渋谷。13年には銀座テアトル・シネマも閉じられるという。

そんな話を聞くと、ひとりの映画ファンとして、とても寂しい気持ちになる。それというのも東京でミニシアターが産声を上げた80年代前半にフリーランスのライターとしてキャリアを始め、多くのミニシアター作品の原稿を書いてきたせいだろう。

当時、私は勤めていた貿易会社をやめて映画の世界に入ったが、その頃の映画界は新米のライターには厳しく、20代のかけだしは雑用係(?)から始めなくてはいけなかった。

映画雑誌や情報誌に海外の新作の情報を提供するのが私のノルマで、毎月、必死に欧米の雑誌を買い集め、スターや監督に関するニュースを集めていた。今のようにインターネットはなく、CNNのようなケーブルテレビも、やっと始まりを迎えた時代。グローバリゼーションの時代はまだまだ遠く、銀座にあった洋書専門店イエナに通う日々が続いた(そんなイエナも今はもうないが……)。

当時、特に大きなインパクトがあったのが、ニューヨークやロサンゼルスの新聞や雑誌に載っていた映画の広告で、新作につけられたコピーや抜粋評を見て、まだ見ぬ映画への思いをふくらませたものだ。中にはとても日本には輸入されそうもないインディペンデント系映画の広告もあった。

その頃、日本には岩波ホールのようないくつかの例外をのぞくと、一般的なロードショー館しかなく、アメリカの広告に載った個性的な映画を上映してくれそうな映画館はなかった。

パンフレット
◉シネマスクエアとうきゅうのパンフレット『ジェラシー』、シネ・ヴィヴァン六本木の『緑の光線』、
俳優座シネマテンの『眺めのいい部屋』。『眺めのいい部屋』は2012年の秋にリバイバル公開された


しかし、1981年12月に新宿に“シネマスクエアとうきゅう”がスタートして、70年代に製作されながらも日本では未公開だった幻の洋画がこの劇場にかけられた。リドリー・スコット監督の『デュエリスト』やニコラス・ローグ監督の『ジェラシー』や『赤い影』、テレンス・マリック監督の『天国の日々』といった作品である。

新宿に続いて、その後も渋谷や六本木、銀座といった繁華街に個性的なミニシアターが次々にオープンし、さまざまな国籍の洋画が次々と公開されるようになった。こうしてミニシアターの時代が始まり、東京は"世界で最も多彩な映画が見られる都市"と呼ばれたこともあった。

ミニシアターの登場と共に、80年代は『ベルリン 天使の詩』や『ニューシネマ・パラダイス』、90年代は『トレインスポッティング』、ゼロ年代は『アメリ』のような大ヒット作も生まれた。

しかし、時は流れ、この2、3年は前述のように歴史のあるミニシアターの閉館が報じられるようになった。

こうした動きと反比例するように、郊外にシネコンが増え、やがては新宿や六本木にもシネコンができて、今ではそれぞれの劇場の差別化がむずかしくなってきた。

さらに大型テレビ、DVDやBDの普及、衛星放送などの充実によって、ホームシアターの環境がレベルアップした。パソコンの配信で見ることもできるし、スマートフォンで、電車の中で映画を見ることも可能な時代になった。

今は映画のデジタル化の問題まで浮上し、フィルムとデジタルの違いに対する議論も盛り上がっている。劇場のあり方だけではなく、映画の環境そのものが大きく変化しつつある。

そんな時代、あえて映画を劇場で見ることの意味とは何だろう?

私自身は81年に“シネマスクエアとうきゅう”のはじまりを目撃し、以後、休むことなく、雑誌や本などに映画の文章を書いてきたが、時代の過渡期だからこそ、あえて(自身の青春時代も重ねながら)ミニシアターの足跡について考え直したいと思った。

ミニシアターの登場によって、好奇心あふれる映画ファンが増え、映画について語ることが刺激的に思える時代が続いていたが、映画の文章を書くことの意義も、今は変わってきたからだ。
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◉左=1981年にレイトショー専門の映画館として始まった六本木俳優座シネマテンの跡地、俳優座は健在
◉中=80年代から90年代にかけて話題を読んだ六本木のカルチャー・ビル、WAVEの中にはミニシアター、 シネ・ヴィヴァン六本木が入っていたが、すでにビルはなく、今では跡地をすぐに特定することもむずかしい
◉右=六本木の交差点の近くの風景
かつてのミニシアターは何をめざしたのか? その送り手たちは何を考えていたのだろう? 映画ファンたちの気質はどう変化したのか? 関係者たちに当時の夢や思いを語ってほしいと考え、劇場の支配人や配給会社の人々に連絡をとることにした。 関係者には古くからの知り合いも多く、映画への夢を共有した時代もあった。そんな人々の今の映画に対する気持ちをぜひ聞きたかった。 この連載は、私にとっては一種の“センチメンタル・ジャーニー”になるだろう。 時代とともに、映画のあり方だけではなく、ミニシアターのある街の表情も変化してきた。取材を通して、ミニシアターを再訪(リビジット)することで、私なりの劇場と街をめぐる物語を描いてみたいと思う。
大森さわこ
80年代より映画に関する評論、インタビュー、翻訳を本や雑誌に寄稿。ミニシアター系のクセのある作品や音楽系映画の原稿が多い。人間の深層心理や時代の個性に興味がある。著書に『ロスト・シネマ~失われた「私」を求めて』(河出書房新社)、『映画/眠れぬ夜のために』(フィルムアート社)、『キメ手はロック! 映画101選』(音楽之友社)、訳書に『ウディ・オン・アレン』(キネマ旬報社)、『カルトムービー・クラシックス』(リブロポート社)等がある。雑誌は「ミュージック・マガジン」、「週刊女性」、「キネマ旬報」等に寄稿。芸術新聞社の「アメリカ映画100シリーズ」では、主力執筆陣の一人として筆をふるっている。
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