ミニシアター再訪



銀座・日比谷周辺にミニシアターが登場したのは1987年で、京橋寄りの銀座テアトル西友(3月、後に銀座テアトルシネマ)、日比谷のシャンテシネ(10月、現TOHOシネマズシャンテ)といった劇場がオープンしたが、年末の12月に新たなミニシアターとして加わったのがシネスイッチ銀座である。

銀座四丁目の交差点に立つ和光ビルの裏手にあり、日本で一番地代が高いといわれる鳩居堂ビル前からも近い。場所としては銀座の一等地だが、多くの人が行きかう交差点から一本入った路地に建っているせいか、劇場そのものには落ち着いた印象がある。劇場の正面にチケット売り場があり、白と黒のツートン・カラーで「CINE SWITCH」と書かれた小さな旗が劇場の周りに何本も飾られている。

テアトル西友はセゾングループ、シャンテシネは東宝が新たに作った劇場だったが、シネスイッチはこうしたふたつの劇場とは違う流れで誕生した。

「銀座文化」と呼ばれる劇場(地下1階と3階)がすでにあり、名画座や松竹系の封切り館として稼働していた。銀座文化劇場の誕生は昭和30年代。最初からミニシアターとして建てられたテアトル西友やシャンテシネとは異なり、すでに歴史のあった劇場がミニシアターに生まれ変わったのだ。

誕生にかかわったのは、劇場を運営していた興行会社の籏興行、配給会社のヘラルド・エース、テレビ局のフジテレビだった。

ヘラルド・エースはミニシアターの歴史の中では大きな役割を占めている配給会社で、80年代の新宿のシネマスクエアとうきゅうや90年代に誕生の恵比寿ガーデンシネマなどでも大きな役割を果たしてきた。シネスイッチの誕生についてはかつてヘラルド・エースの社長を務めていた原正人プロデューサー(現アスミック・エース特別顧問、Hara Office代表)に話を聞くことができた。

邦画界の名プロデューサーとしても知られる彼はヘラルド時代には『戦場のメリークリスマス』(83)、『』(85)、『失楽園』(97)などの話題作も製作している。

多くのミニシアターは洋画上映が中心だったが、シネスイッチの場合、最初から邦画のための受け皿ということを想定していたようだ。劇場名の“スイッチ”は洋画と邦画のふたつのチャンネルを持つという意味でつけられた。21世紀に入ってからは洋画をしのぐ興行力を誇るようになった邦画だが、80年代は今とは状況が違っていた。

「あの頃、邦画をかけられる劇場がなくて苦労していました。日本映画には出口がなかったんです。大手で全国公開できるものはいいんですが、それ以外の作品は本当に大変で、じゃあ、邦画のための単館が作れるのかというと、それもむずかしい。ひとつには予算の問題もありました。洋画の場合は1000万から3000万円ほどで権利を買えましたが、邦画は1本作るのに小規模のものでも5000万から1億円ほどかかっていたからです」

当時の邦画と洋画の状況について原プロデューサーはそう語る。予算の問題もあって、当時の映画界では洋画を配給する方が金銭的なリスクも少なかった。しかし、フジテレビとの出会いを通じて、原プロデューサーは別の可能性を見出した。

「フジテレビとは80年代、ヘラルド時代に『ナポレオン』(26)の特別上映で手を組みました」

アベル・ガンス監督の20年代のサイレント映画が復元され、それが生オーケストラ付きで82年にNHKホールで上映された(オーケストラの指揮をとったのは、フランシス・フォード・コッポラの父、カーマイン・コッポラ)。フランシスがプレゼンターとなり、古い映画が現代によみがえる画期的なイベントだった。

「その後は『南極物語』(83)や『瀬戸内少年野球団』(84)の公開の時もヘラルドと協力関係にありました。そこで培った人脈を生かして何かを始めたいと思っていたのです」

90年代以降のフジテレビは「月9」の愛称で知られる数々のトレンディ・ドラマ(「ロング・バケーション」「ひとつ屋根の下」等)を連発して高視聴率を上げたが、70年代から80年代のフジはTBS、テレビ朝日、日本テレビほど強力ではなかったという。

「だから、その頃のフジテレビは挑戦しなくてはいけない、と思っていたようです。テレビ界における新しいチャレンジャーとして、80年代のフジには元気がありました」

当時のテレビ界はお笑いブームにわいていて、そんな中からビートたけしや明石家さんまといった新しいタレントが出てきたが、自由な発想で番組作りを進めていたフジテレビは彼らを起用した新感覚のお笑いバラエティ番組「オレたちひょうきん族」で人気を得ていた。また、目玉をかたどったテレビ局のシンボルマークにも斬新なインパクトがあった。 「こういうものを世に送り出していた人々とも交流があり、その人脈と流れの中で日本映画を一緒にやろうということになりました。フジテレビとヘラルドの若手たちが上司を口説き、僕も彼らに口説かれ、その結果、籏興行の籏社長にお願いして、邦画も上映するシネスイッチが始まったのです」

銀座文化劇場のオープンからはすでに30年近く経過していたため、劇場は全面改装となり、新しいミニシアターが誕生することになる。従来のミニシアター同様、洋画作品も上映されるが、邦画上映が意図的にコンセプトとして組み込まれているところが他のミニシアターとは違った。

「そんな動きの中から、いろいろと新しい邦画も生まれていきました」

80年代の邦画の上映作品には滝田洋二郎監督の『木村家の人びと』(88)、長崎俊一監督の『誘惑者』(89)、劇作家鴻上尚史の監督デビュー作『ジュリエット・ゲーム』(89)等があり、90年代は相米慎二監督の『お引越し』(93)、『我が人生最悪の時』(94)から始まる林海象監督の“私立探偵濱マイク”シリーズ、岩井俊二監督の『Love Letter』(95)等が上映されている。

『木村家の人びと』の場合、シネスイッチの歴代興行成績の11位で、この劇場で最もヒットした邦画となっている。バブル期の日本を風刺したコメディで、日々、小銭稼ぎに励む一家の姿が描かれる。海外でも好評を博し(英語題は「The Yen Family」)、特に香港では人気を博したという(それなのにいまだDVD化されていないのが残念だ)。

「あれはおもしろい映画だったね。海外でリメイクするという話も来ていたようだし。ただ、これまでいい作品は上映してきたけれど、邦画は採算がとれない場合もありましたし、東京一館だけの興行ではビデオ化の時に話題が広がらないため、経済的に厳しい部分もありました」
木村家の人びと
◉イラストが個性的なシネスイッチのパンフレットも他のミニシアター同様、映画単発でのデザインではなく、雑誌のように統一されたものだった
邦画と洋画をスイッチできる劇場というコンセプトでスタートした劇場だったが、歴代の興行成績は1位の『ニュー・シネマ・パラダイス』(89)から10位の『みんな元気』(90)まで洋画が占めている。邦画と洋画が同じようにこの劇場で興行的に受け入れられたわけではないが、それでも21世紀以降の邦画の興行界での快進撃を考えると、80年代から邦画を意識したミニシアターというコンセプトは時代を先取りしていたし、滝田洋二郎や岩井俊二など、その後の日本映画を支える才能を育てた功績も大きい。

「89年に『ニュー・シネマ・パラダイス』が記録的なヒットとなった後は、洋画のイメージが強くなり、シネスイッチの本来めざした方向とは違う方に進みました。ただ、岩井俊二の作品はレイトショーの『undo』(94) が大ヒットとなり、それを受けて『Love Letter』 も当たりました。この劇場で監督作を公開することで、その後につながる動きはありました」

岩井作品はシネスイッチでの成功の後、96年に『スワロウテイル』がさらに大きな規模で公開されて大きな話題を呼んだ。

フジテレビは途中でシネスイッチからは手をひくが、90年代後半以降は連続ドラマの映画化である『踊る大捜査線』シリーズ(98~12)を製作して邦画の歴代興行記録を塗り替え、テレビ発のエンタテインメント映画として新たな方向を見せる。

原プロデューサーが語るように「その後につながる動き」がこの劇場での邦画の試みの中に潜んでいたことが分かる。

邦画を定期的に上映できるミニシアターというコンセプトがとにかく当時としては新しかったわけだが、銀座の別のミニシアターとの違いは他にもあった。これについて原プロデューサーは語る。

「銀座地区の場合、もともとロードショー館がたくさんあったので、80年代に入ってもミニシアターがなくてやっていけたんじゃないかと思います。邦画の専門館としては名画座ですが、並木座もありました。他の地区より地代が高いので一から新しい劇場を作るのは大変だったと思います。シャンテにしても、テアトル西友にしても、その地区の再開発があったからこそ、生まれたミニシアターです」

東宝系のシャンテシネは日比谷の映画街を一新するというプロジェクトの中で生まれたミニシアターだ。一方、セゾン系のテアトル西友は大型ロードショー館(テアトル東京)の跡地に建ったホテル西洋のビルに併設された劇場だった。

「その点、シネスイッチの場合は勇気があったと思います。土地の再開発とは関係なく、籏興行が我々のコンセプトにのってくれて劇場を大改造したんです」

フジテレビ、ヘラルド・エース、籏興行の三社が手を取り合うことで、新しい夢を託した映画館に生まれ変わったわけだ。

「とにかく、人が大事だと思います。まずは人がいて、その人とコンセプトとタイミングが結びつくと何かが始まるんです」

そんな“人とコンセプトとタイミング”の結びつきは「銀座文化」のもうひとつの劇場でも生かされた。地下はシネスイッチ銀座となるが、3階はオードリー・ヘップバーンの主演作など古いハリウッド映画やヨーロッパ映画のリバイバル上映を中心としたロードショー館となった。ヘラルド・エンタープライズのスタッフが企画を出して、実現に至ったという。

「ヘラルドは会社の命令で社員が何かをやるというタイプの大会社ではなかったから、社員からやりたいことを提案してもらって、それを形にしていた。『銀座文化』の“ヘラルドシネマ・クラシックス”の場合はスタッフのひとりが、古いハリウッド映画にはビデオ権がないけど、劇場権はあるから上映してはどうでしょう、と提案してくれて、それで始まりました」

邦画と洋画のスイッチによる単館&クラシック作品のリバイバル館。「銀座文化」のふたつの空間はこうして新しいコンセプトによって生まれ変わり、ミニシアター興行の金字塔となる『ニュー・シネマ・パラダイス』をはじめ、数々の大ヒット作を生み出すことになる。

(この項つづく)
シネスイッチ銀座
シネスイッチ銀座は、東京都中央区銀座4-4-5に所在
大森さわこ
80年代より映画に関する評論、インタビュー、翻訳を本や雑誌に寄稿。ミニシアター系のクセのある作品や音楽系映画の原稿が多い。人間の深層心理や時代の個性に興味がある。著書に『ロスト・シネマ~失われた「私」を求めて』(河出書房新社)、『映画/眠れぬ夜のために』(フィルムアート社)、『キメ手はロック! 映画101選』(音楽之友社)、訳書に『ウディ・オン・アレン』(キネマ旬報社)、『カルトムービー・クラシックス』(リブロポート社)等がある。雑誌は「ミュージック・マガジン」、「週刊女性」、「キネマ旬報」等に寄稿。芸術新聞社の「アメリカ映画100シリーズ」では、主力執筆陣の一人として筆をふるっている。
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