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    ■初日流れて
 大阪商船が発行した雑誌『海』の第76号(昭和13年1月発行)の表紙は、緑色の大空と大海に初日の出が昇るなか、悠然と進む船舶の大型の旅客船の勇姿を描く。手前にある水上の鳥居は、厳島神社ものだろう。扉には操舵輪のなかに、大阪商船の企業名と皇紀2598年の年号を記している。
   
 
   
  『海』第76号(昭和13年1月)表紙   扉絵
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     この号では「新春の海」と題する中河幹子の俳句が掲載されている。連載第15回でも紹介をしたが、幹子は明治28年の生まれ、女子英学塾(現津田塾大学)に在学していた大正9年に小説家の中河与一と結婚する。卒業後、女性文芸誌「ごぎやう」を創刊している。香川県出身であり、瀬戸内海にはゆかりの歌人は、以下のように初日の出の情景を詠んでいる。

 瀬戸の海に初日ながれてをちこちの島山いまし朱ににほへり
 瀬戸の海をいゆく汽船に年明けて人しみじみと眞日をがむらむ

 瀬戸内での日の出は、水平線からではなく、遥か遠くの島や山の稜線から昇り始める。大洋に東を面した土地とは異なる、瀬戸内らしい情景や、船上で新年の到来を寿ぐ人々の感覚を、女性歌人はこのように描写した。いっぽうで次のような歌もある。

 青潮のたたへしづけき新春のうみみいくさ船のゆきしともなし
 戰勝の年たちかへる島かげの漁村の軒の日の丸の旗
 みいくさに子をば送りし家もあらむ島の浦曲の小さき漁村
 戰勝の年たつけふを海越えて金毘羅宮に人まうでたり

 ちょうど大陸での戦火も激化していた時期だ。皇紀2598年を数えるこの昭和13年の5月には、国家総動員法が制定され、いよいよ総動員体制が具現化されることになる。初春の瀬戸内を詠む歌にも、これらのようなものが混じる。
   
    ■瀬戸内の展望台
 この『海』の第76号(昭和13年1月発行)には、田村剛が「瀬戸内海國立公園の展望臺」という一文を寄せている。田村は連載の第5回で紹介したように、瀬戸内海を国立公園とするうえで重要な役割を果たした造園の専門家であり、この時は国立公園協会の理事をつとめていた。『海』に寄せたこの文章で、彼の瀬戸内海の評価が良く判る。概要を述べておこう。
 瀬戸内海の風景は、すでに「世界の公園」として内外に定評がある。しかしこれまで評価されていた「内海風景」景は、主として主要港湾を結ぶ船舶、とりわけ外国航路を行く汽船の甲板から眺めたものに限っていた観がある。
 たとえば史蹟である屋島や、小豆島寒霞渓の紅葉は、「局地的な名所」として広く知られていた。しかし内海を展望する屋島の北嶺は訪れる人はあまりない。鞆の仙醉島にしても、島と属島の絵画的な風景は知られていたが、街の北方にある後山中腹の醫王寺からの雄大な展望については、あまり知る人もない。
 瀬戸内海が国立公園の候補地として名乗りを挙げた当初は、「屋島及び小豆島」というように、いくつかの名勝で代表されていた。しかし調査がすすむにつれて、「内海の大観的な展望美」に卓絶するものがあることが知られるようになった。最初に発見されたのが下津井の鷲羽山であり、ついで本島、白石島はこれに匹敵、やがて新割山、大崎鼻、佐柳島、高見島などが踏査され、それまでは世に知られていなかった展望台が次々に紹介されるようになった。多島海の風景は、高地から展望する際に、もっとも良くその特色を発揮する。
 結果、瀬戸内海国立公園は、局地的な名所のほかに、大観において独自の風光を誇るものという点から「備讃瀬戸」に領域を拡張、「海そのものを舞台とする公園」となった。田村はこの経緯を回顧して、「内海風景の見方」に「革命」があったと指摘している。
 また田村は、主として花崗岩から成り立つ瀬戸内海の諸島にあって、屋島・五剣山・女木島・男木島・豊島・大槌島・小槌島・佐柳島・高見島・讃岐富士など、新火山岩からなる「異様な輪廓の島山」が起伏、スカイラインの単調さを破っている点が、「内海風景」に活気を漲らせていると述べる。一様な地質でできている松島や天草群島、朝鮮半島の羅州群島とは比べ物ものにならいほど、変化に富んでいると述べる。
 田村が特に注目した瀬戸内海の眺望の魅力は、季節ごと、時間ごとの差異である。通常、海景は夏といってよいものだが、大気が澄んだ秋も、淡く春霞に島々が浮かぶ春も余韻があって面白い。1日の変化になぞらえれば、日中が夏、朝は春、夕方は秋、夜は冬にたとえられる気分を伴なう。なかでも瀬戸内がもっとも壮麗に粧われるのが、日没の1時間ほど前である。田村は次のように書いている。
 「それは空も海も島影も一様に、世にも神々しい薄紫のヴエールを着けて現實から次第に遠ざかつて行く姿であるが、この1時間ほどが海景としては、最も印象的なものであることを、度々の經験から、私は信じてゐる。」
 四海の展望台でも、観光者はこの瞬間を見逃さないことを希望すると書いている。また「もっと専門的な航路」と「快適な船」、そして「近代的な宿泊施設」が各地に造営されることで、「海のハイキング」が大衆化し、瀬戸内海国立公園の真価が広く内外に認められることを念願してやまないと最後に述べて、小文をまとめている。
 瀬戸内海の価値を高く評価した専門家による風景論として、要領を得たものだ。文章に添えられた4枚の写真も、瀬戸内海の眺望の素晴らしさを訴求している。
   
 
   
  本島の展望   根香寺の展望
   
  鬼ヶ島(女木島)の展望   屋島談古嶺
    ■修練途上
 今回紹介した『海』の第76号(昭和13年1月発行)の巻末に「編輯雑感」という記事がある。この時期に編集を担当していた大阪商船の今道潤三が、発行の意図や編集方針を記述しているものだ。
 今道は明治33年に長崎県に生まれ、京都帝国大学を卒業している。大阪商船では南洋部長を務め、戦後はラジオ東京(現TBS)で社長となった。海運会社が総動員体制に向かうなかで、雑誌という媒体をいかに位置づけていたのかが判り、興味深い。 
 「編輯雑感」において今道は、大阪商船社長であった村田省蔵が著した「國際海上運輸」から文章を引用している。村田は、日中戦争に際して、海運の戦時体制確立を主張、海運自治連盟を結成し理事長に就任、昭和15年には逓信大臣兼鉄道大臣になった人物だ。
 村田は、日本の海運政策における重大事項として、「海事思想の普遍化を圖ることは蓋し現下の急務である」と述べ、また「海運が文化の先駆者として、文化の顯揚に、民人の福祉に、將た又國富の増進に偉大なる貢献をなし、平時と戰時とを問はず極めて崇高なる使命の下に活躍してゐる事を國民の腦裡に深く刻みつけたいものである」と述べた。                    
 今道は、村田の「この主張の一部」を具現する目的、すなわち「海事思想の普及」という「大理想」のもとに、『海』は発刊されたと位置づけている。そのうえで、次のように続けている。
 「『海』は其の道の専門的雑誌製作家によつて編輯せられて居るのではない。貨物を扱つたり船客事務に從事したりしてゐたものが海運人としての『修練途上』に於てしばらく此の仕事に交るがわる當らされるのであつて、玄人の様な専門的な力もないしまた玄人の眞似をし様とも思つてゐない。然かし雑誌製作の技巧には素人でも海運に關しては少なくとも此の仕事の監督者達は素人ではない。我々は海事思想を出來るだけ普及せしむると言ふ熱意に燃へて出來るだけ素人の良い味を出したいと努力して來たし、今後も其の方針のもとに努力するであらう。此の點はよく諒解しておいて戴き度いのである。」   
 「一流中の一流」の方々からの寄稿がある点を感謝しつつ、専門の編集者ではなく、大阪商船の社員が担当している意義について、このように誇らしげに説明している。
   
橋爪紳也(はしづめ・しんや)
1960年大阪市生まれ。大阪府立大学21世紀科学研究機構特別教授。大阪府立大学観光産業戦略研究所長。大阪市立大学都市研究プラザ特任教授。建築史・都市文化論専攻。工学博士。京都大学工学部建築学科卒業、京都大学大学院工学研究科修士課程・大阪大学大学院工学研究科博士課程修了。

著書に『明治の迷宮都市 東京・大阪の遊楽空間』(平凡社・筑摩書房)、『大阪モダン 通天閣と新世界』(NTT出版)、『日本の遊園地』(講談社)、『祝祭の〈帝国〉』(講談社選書メチエ)、『飛行機と想像力 翼へのパッション』(青土社)、『モダニズムのニッポン』(角川選書)、『「水都」大阪物語【再生への歴史文化的考察】』(藤原書店)ほか多数。

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