第38回 「不協和音」…①
獄中にあった日本共産党の大幹部佐野学(佐野碩の伯父)と鍋山貞親による転向が公表されたのは小林多喜二が惨殺された4月後の昭和8(1933)年6月10日で、転向声明書は刑務所に収容されている党員にも配布された。声明の影響は絶大で、この後、雪崩を打ったように転向が相次いだ。風間丈吉や田中清玄といった党の大幹部が転向、治安維持法違反で収監されていたマルクス主義経済学者の河上肇も転向を宣言した。

刑務所で結核の病勢が進んでいた窪川鶴次郎も転向を誓って11月、保釈された。

鶴次郎が自宅に戻る少し前の10月20日の『読売新聞』に稲子が書いた「留置場の一日」という文章を読むと、10月に彼女も1週間ほど警察署に拘束されていたようだ。シンパの嫌疑で捕まった声楽家の娘と母親、親知らずが生えてきたという繊維組合の女性など、同房にいあわせた女たちのようすをスケッチしている。

夫が戻って、稲子の日常もようやく平穏を取り戻す、ということにはならなかった。

刑務所を出た鶴次郎は、解放されて執筆意欲に燃えていた。淀橋区戸塚に新しく借りた家の六畳を鶴次郎が使い、隣の三畳が稲子の部屋となった。

稲子は口述筆記で夫の執筆を助けることもあった。「窪川は上等な口述筆記者を持っている」と仲間うちで言われたが、夫が語る文章が面白くないと感じると、自然と手がとまりがちになる手ごわさもあった。

鶴次郎が出所する前に発表した小説(「進路」)を読んだ貴司山治(きしやまじ)が、「亭主のいない方がいいね」と言って稲子を苦笑させている。なぜなら、夫が刑務所に入ってしばらく、多忙にまぎれて小説が書けない時期にも、貴司にではないが、「亭主がいないと小説が書けないのか」と言われることもあったからだ。いなければいない、いればいるで、何かにつけ鶴次郎が引き合いに出されるのには閉口させられた。

評論はさほど金にはならず、生計の主たる担い手は依然、稲子で、家事を担うのもまた稲子だった。興が乗っていても、時間がくれば食事のしたくをしなくてはならない。夫不在の時にはない不自由を感じるようになっていた。

疲労が積み重なって肺尖カタル(結核性の炎症)でひと月ほど床についたときも、寝床で仰向きになったまま『中央公論』に約束した「牡丹のある家」を書きはじめ、まだ起き上がれないうちに完成させるという離れ業を見せた。

昭和9(1934)年8月、ナウカ社から随筆集『一婦人作家の随想』が、中央公論社から『牡丹のある家』が出版され、2冊の出版記念会が9月27日、婦人活動家神近市子が創刊した雑誌『婦人文芸』の主催で内幸町にあったレインボーグリルで開かれている。

出席者は宮本百合子、湯浅芳子、中野重治、壺井栄らで、ほかに平林たい子や武田麟太郎、秋田雨雀、亀井勝一郎ら全部で40人あまりの、ほとんどが、所属の派こそ違え、プロレタリア陣営の作家である。神近の主催者あいさつの後は平林が司会となって、秋田、宮本、ナウカ社の大竹博吉、中野らがあいさつに立った。

出席者の一人、画家の柳瀬正夢は『一婦人作家の随想』の挿画を手がけた。ある日、深夜2時ごろふいに家にやって来た柳瀬は、寝ていた稲子を起こして彼女の顔のスケッチを始めた。あわてて寝巻の浴衣のまま画家の前にすわったために、表紙画の稲子はいつもの眼鏡をかけていない。この肖像は、彼女のもっとも好きな絵の一枚になる。

『婦人文芸』に載った紹介記事には、鶴次郎の不在中、2人の子どもと祖母を抱え、プロレタリア文学運動にかかわりながら、わずかな時間を割いて作品をつむぎだした稲子への、あたたかな応援の思いがこもっている。

稲子は筆名を「いね子」から「稲子」に改名した時期をはっきり覚えていないようだが、この記事には「最近、改名した」とあるからこれは昭和9年半ばのことだろう。出版記念会で貴司山治は改名について、「いわゆる女らしさへの訣別と、氏の一面である太々しさをより積極的に育もうとする気構えを見る」と述べた。

作家としてさらに大きく伸びようとする時期、狭い家に2人の物書きが隣りあわせて執筆する日常に、稲子は息苦しさを感じ始める。それは鶴次郎も同じだった。彼には評論だけではなく、小説を書きたい気持ちもあった。運動の壊滅は、夫婦のありかたに思いがけず2人の目を向けさせていく。

参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同「留置場の一日」(『佐多稲子全集』第16巻)、同「折り折りの人/柳瀬正夢のこと」(『佐多稲子全集』第18巻)、「窪川稲子氏の『牡丹のある家』『一婦人作家の感想』出版記念会」(『婦人文芸』1934年11月号)

佐多稲子年譜(敗戦まで)

1904年(明治37年)
6月1日、長崎市に生まれる。戸籍上は父方の祖母の弟に仕えていた奉公人の長女となる。
1909年 5歳
養女として、実父母の戸籍(田島家)に入籍。
1911年 7歳
母ユキ死去。
1915年(大正4年) 11歳
一家で上京。小学5年生の途中で学校をやめ、キャラメル工場で働くことに。その後、料亭の小間使い、メリヤス工場の内職などを経験。
1918年 14歳
前年単身赴任していた父正文がいる兵庫県相生町に移転。
1920年 16歳
単身で再び上京して料亭の女中になる。
1921年 17歳
丸善書店洋品部の女店員となる。
1924年 20歳
資産家の当主、小堀槐三と結婚。
1925年 21歳
2月に夫と心中を図るも一命を取り止め、相生町の父に引き取られる。6月、長女葉子を出産。
1926年(昭和元年) 22歳
上京。カフェー「紅緑」の女給になる。雑誌「驢馬」の同人である中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らを知る。9月、離婚成立。窪川とは恋愛し、やがて事実上の結婚状態となる。
1928年 24歳
最初の小説「キャラメル工場から」を窪川いね子の名で発表。全日本無産者芸術連盟に加盟。
1929年 25歳
日本プロレタリア作家同盟に加盟。窪川に入籍。
1930年 26歳
長男健造誕生。最初の短編集『キャラメル工場から』刊行。
1931年 27歳
女工もの五部作を翌年にかけて発表。「働く婦人」の編集委員となる。
1932年 28歳
社会主義・共産主義思想弾圧で窪川鶴次郎検挙、起訴され刑務所へ服役。次女達枝誕生。日本共産党に入党。
1933年 29歳
「同志小林多喜二の死は虐殺であった」を発表。窪川が偽装転向で出所。
1935年 31歳
戸塚署に逮捕されるも保釈。「働く婦人」の編集を理由に起訴。
1936年 32歳
父死去。
1937年 33歳
懲役2年、執行猶予3年の判決。
1938年 34歳
『くれなゐ』を刊行。窪川と作家・田村俊子の情事が発覚。
1940年 36歳
初の書き下ろし長編『素足の娘』を刊行。
1941年 37歳
銃後文芸奉公隊の一員として、中国東北地方を慰問。国内では文芸銃後運動の講演で四国各地を回る。
1942年 38歳
中国や南方を戦地慰問。「中支現地報告」として「最前線の人々」などを発表。
1943年 39歳
「空を征く心」を発表。
1944年 40歳
窪川と別居生活に入る。執筆がほとんどできず、工場動員で砲弾の包装などをする。
1945年 41歳
健造と達枝を連れて、転居し、窪川とは正式に離婚。
※参考文献=佐多稲子『私の東京地図』(講談社文芸文庫)収録の年譜(佐多稲子研究会作成)

筆者略歴

佐久間 文子(さくま あやこ)

1964年大阪府生まれ。86年朝日新聞社に入社。文化部、「AERA」「週刊朝日」などで主に文芸や出版についての記事を執筆。 2009年から11年まで「朝日新聞」書評欄の編集長を務める。11年に退社し、フリーライターとなる。