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 父がタイボクを連れて今のアパートに移ってきたのは、本当にいきなりのことだった。

 明日から二人で暮らすぞ。ここは引き払って近所のアパートに移る。学校は変わらなくていい。お母さんとは別々に暮らすことになる。

 父がそう宣言したとき、母のほうはいたたまれないというように、ふわっと立ち上がってトイレに行った。そして長いこと、トイレから出てこなかった。タイボクがおしっこをしたくなって、ママ、ママ、と言いながら、トイレの扉をたたいた。返事はなかった。

「ママ、おしっこがもれるよ。出てきてよ」

 そう言うと、ようやく出てきてくれたが、泣いていたみたいだった。

 タイボクもママといっしょに泣きたいと思った。しかし涙はなぜか出てこなかった。あの日から一度も泣いていない。思い出すと、胸が痛い。比喩ではない。指を怪我して血が出たとき、痛いと感じるように、本当に胸が痛いのだ。息ができなくなり、圧迫感がある。自分の胸を、どんどんとたたく。たたいても、ママが現れるわけではない。

 福包の帰り、タイボクは、例によってコンビニへ寄った。いつか、チョコバーを盗んだ店ではない。あれからあの店にはなんとなく入りにくくなった。

 そういうふうに、入りにくい店があちこちにできたら、生きにくくなるだろうなあと、大人びたことを思いながら、目の前のコンビニに入っていった。

 コンビニに来るとほっとした。なんでもあるし、明るいし、自分がいつまでもそこにいていいと言われている気がする。

 無駄遣いはするなときつく父から言われているが、何か買いたくなる。タイボクは百五十円の、噛んで食べていいガムを選ぶ。支払いをすませると、その場でパッケージをすぐに破り、ガムを口に放り込んだ。口がさびしいとき、心もまたさびしくなる。口のなかが満たされるとき、さびしさもまた忘れられる。からだとこころは連動していることを、タイボクはうっすら理解している。



 真夜中になって、父が帰ってきた。

 父はまっさきに、タイボクの部屋へ行くと、寝顔を見て、生きていることを確認した。タイボクは口を開けて眠っていた。これがいけないんだよ。そう、ひとりごとを言うと、開いた唇の上下を、指であわせた。一瞬、閉じ合わさったタイボクの唇は、指を離すと、またわらわらと離れてしまった。大きくなったなあ、と父は思う。ベッドが少し窮屈そうだ。

 最近、番組で、子供の健康を扱った。そのとき出演してくれた医師から、口呼吸の問題点を聞いたばかりだった。

「子供の多くが口呼吸をしていますが、それによって細菌に感染したり、自律神経のバランスを崩したり、虫歯にもなったりします。アレルギーを引き起こす原因にも、なっていますね。顔の歪みを作ることもあります。ぜひ小さなうちに、鼻呼吸ができるように、指導してください。まずは、寝ているときの子供をよく観察してみてほしいのです」

「どうしたらその、鼻呼吸になるんですか」

 打ち合わせのときたずねてみたら、「あいうべ体操」という、口と舌を使った面白い体操を教えてくれた。これはいい、と思った父だった。

 タイボクには、原因がはっきりしないアレルギーがあった。家のほこりや花粉なども関係しているのだろうが、季節の変わり目になると、咳が出たり、目がかゆくなったりする。父と母が別れてからひどくなった、とこの父は思い、それを自分の責任のように感じていた。
            
→11へ続く