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「おう、待った?」

 目を上げると、そこに、むかしの夫がいた。三年ぶりだが白髪だらけだ。

 タイボクの母はショックを受け、けれど、そう感じたことをうまく隠した。

 目の前にいる元夫に、もう、ときめきのようなものはない。かといって懐かしさのような感情も湧いてこない。

「今来たところよ」

 そう答えてしまうと、もう次に出す言葉が見つからない。

 二人は黙って、木の根を踏みしめた。

 共に気持ちが沈んでいるわけではなかった。気持ちの底に言葉が沈んでいた。うまくかき混ぜさえすれば、底のほうのそれが、自然に水面に浮き上がってくるだろう。タイボクの母はそれをしばらく待ち、やがて尋ねた。

「タイボクは――その――ずいぶん大きくなったのね(そしてあなたはずいぶん老けたわ)」
「ああ――あの――縦方向ばかりだけど(おまえさんはかわんねえどころか、わかくなったな)」
「食事はどうしてるの」
「食べてるよ」
「中身の問題よ。あなたもあれほどの仕事を毎日かかえてる。タイボクがきちんと食べられているのかなって、それだけはずっと心配だった」
「そりゃあ行き届かないけど、なんとかなってる。コンビニもあるしね」

 あるどころじゃない。コンビニだらけだ。家に近い何軒かのコンビニに、この父はけっこう頼っている。

「タイボクが赤ん坊のころ、よく通った肉屋があっただろ」
「ああ、あったわね」
「去年廃業したよ」
「まあ。残念」
「かなりの老夫婦だったからね」
「肉を切りわけるのは重労働だわ」
「揚げ物もあるしな」
「おいしかったわ、あれ」
「おいしかったな、あれ」
「コロッケでしょう」
「そう、コロッケ」
「実はあれだけが心残りだったの」
「え?」
「この地域を離れるとき、あれが食べられなくなるのが唯一の心残りだったの」

 本当はそんなのんきな状態ではなかったが、言葉にしてしまうと、こっちのほうが真実に聞こえた。

「揚げたてで、ほっくりしていて、食べるたびに口んなか、火傷してたな、おれ」

 そう言いながら、夫のほうは、ふと、この傍らにいる女は、今、どこでどんなふうに泣くのだろうと思った。泣いた妻の顔を思い出そうとするが、目の前の顔にうまく重ならない。

「あのね、コンビニがすべて悪いわけじゃないのよ」

 妻はこうしてよく話を戻す。というか、つまり、会話の主導権を握っている。

「わかってるのよ。その便利さは。でもあの匂いがなんだか嫌なの」
「匂いなんてしたかな? 匂いがないのがコンビニじゃないか」
「気づかない? 入った瞬間、不思議な匂いがするわ。家の台所の匂いじゃないの。なんだろうあれ。でもこんなこと、何もしてやれないわたしが言うべきことじゃないわね」

 そうだとも言えずに、彼は黙った。
            
→16へ続く