16
「ねえ、ここで待っていればタイボクは来るの?」
「ああ。でも時間が少しかかるだろう。あと片付けもあるだろうしな。あいつ、焼き肉が好きだから、今日は焼き肉でも食べにいくか。その前に家へ寄る?」
「いいの?」
「別に、いいよ。何も問題はないよ。いつだって来てよかったんだ」
「まさか」
「来るな、なんて一度も言ったことはないぞ。あんたが勝手に消えただけだ」

 彼女には彰子という名前があった。ごく小さいころは、あーちゃんと呼ばれた。夫が妻をその愛称で呼んでいた時期もある。けれどいかにも幼い響きがあって、タイボクが生まれると、「アキコ」になった。やがてその「アキコ」も会話から消え、喧嘩をすると、夫は「おまえ」と言った。喧嘩をしていないときには、「あんた」と言った。

 そしていま、久々に「あんた」と呼びかけられた彰子は、夫のことを最後までふーちゃんと呼んでいた。喧嘩をしてもふーちゃんと呼べば、元通りになれそうな気がして、ふーちゃんと呼んだ。いま、その呼び名は、はるか遠くにある。

 ふーちゃんの名前は富士男である。日本一の山にちなんで、将来、日本を背負って立つ、いい男になってもらいたくてね。夫の母、つまり彰子にとっての姑は、意地悪なところがまったくない人だったが、結婚するとき、嫁となる彰子に、自慢気にそう告げたのだった。



「ただいま」

 学校での片付けを終えたタイボクが、かけ足で家に戻ってくる。

 玄関には見慣れない靴。ヒールの高い女性の靴だ。タイボクの足よりずっと小さい。ママだと思ったそのとき、

「おかえり!」と大きな声がして、そのひとがわっと玄関に現れた。

 長い髪の毛の先が軟かくカールしている。おしゃれだな、とタイボクは思った。ママというより、一人のおんなのひと。タイボクは久しぶりに、「おかえり」という言葉を聴いた。台所のほうから、「焼き肉食いにいくぞ」という父の声がする。「さあ、早く支度して」と母。

 けれどタイボクはつったっているばかりで何も言えない。大好きな焼き肉はうれしかったが、この家から一歩、出てしまったら、また、ママが帰ってこなくなる。

 タイボクはいつからか、物事を先走って考える子供になっていた。

 ずっとこのまま、ここで、三人で、いたい。けれどやっぱり焼き肉は食べたい。

「ママ、そんなに外は寒くないよ」
「そう?」
「コートはここへ置いていきなよ」
「そうねえ」
「店はすぐそこだもん。寒いわけないさ。持っていくほうが邪魔だと思うけど」

 静かだけれど、何か一生懸命なタイボクの口調に、ママは「わかった」と言い、従うことにした。

 とにかくこの家に、母をいったん帰還させたい。コートはいわば、人質のようなものなのだった。
            
→17へ続く