17
 翌朝、ママはいなかった。

 ソファの背にふわりとかけられていた水色のコートは、もうどこにもなかったし、玄関にあった銀色の靴も、雪のかたまりだったかのようにあとかたもなく消えていた。

「タイボクが眠るまでは、ここにいるから」

 焼き肉屋から戻ったあと、確かにママはそう言った。だからタイボクは目をつぶりながらも、決して眠らないと決心していたのだったが、襖を閉められ真っ暗になると、気づいたときは朝だった。自分を傷つけたい、誰かを殴りたい。でも、誰が悪いのでも、嘘をついたのでも、裏切ったのでもなかった。ただ、夢から覚めるとはそういうことだった。

 今朝、父は、まだ寝ている。ときどき、そうして起きてこないことがある。前に、遅刻するよと起こしたら、今日はいいんだ、起こすなと怒鳴られた。父は眠りが足りない時、なんだかひどく凶暴な顔になり、乱暴な物言いをする。以来、タイボクは、寝ているときの父に触らない。

 テーブルの上にはいつものように大袋入りのパンではなく、一個一個が紙で包まれた、高級そうなパンがあった。ママが置いていってくれたものに違いなかった。

 パジャマのまま、いきなり手を伸ばして食べる。それからヤカンの底に、はりつくくらいの少しの水を入れ、ガスにかけた。

 窓の外では、うるさいほど、スズメが鳴いていた。ぼんやりと耳を傾けているうちに、ヤカンの水はたちまち口から湯気となって吹き上がり、やがてちりちりと、底が焼けるような音がたつ。

 やべっ、とあわててガスの火を消す。

 同じ間違いをするわけにはいかない。以前、テレビに気を取られて、ヤカンの底を焦がしてしまったことがあるのだ。あのときは、帰ってきた父が珍しく気がついた。全体が赤銅色に焼けているヤカンを見て、どうしたんだ? これ、とタイボクを問い詰めた。目を離すんじゃねえ。火を使ってるときには、それだけ見てろ、何かするときにはそれだけすればいいんだ。火事おこしたらどーすんだ、ひとつのことに集中しろ。父親にはひどく怒られたものだった。

 クロワッサンはものすごくおいしかった。結局、それだけで、即席のコーンスープも飲まず、昨日と同じ服を着て、歯をみがき、家を出る。ドアを閉めるときにも細心の注意をもって。決して音をたててはいけない。
            
→18へ続く