18
 家を出てしまうと、家のことは忘れる。空は青く、桜の終わった並木道には、木々の緑が輝いている。

 一組の親子とすれ違った。保育園に向かっているらしい。子供はまだ、幼児といっていい年頃で、ひどく泣きながら、お母さんのあとを追っている。お母さんの歩くスピードはけっこう早い。これから仕事に行くらしく、肩にバッグをかけ、スーツ姿だ。

 子供は必死にあとを追う。おぼつかない足取りで、途中、ころんだ。タイボクが、いかにもころびそうだと思ってふりかえったとたん、ジャストタイミングでころんだのだった。ああ、やっぱりと少し笑うと、子供の母が、くるっとふりかえって子供に怒鳴った。

「そうやって、わざところぶんじゃねえよ」

 タイボクはどきっとした。いや、わざとじゃないよ。心のなかで代わって抗議したが、子供はさらに泣き声をはりあげる。タイボクは、まるで自分が怒られたように思って、体が硬直し、ただ見ているしかなかった。

 母親は少し戻ってくると、片足をあげ、うずくまった子供を、荷物のように軽く蹴った。細いヒールの靴を履いていた。

 じっと見ているタイボクに気づくと、何見てんだよ、てめえ、さっさと学校いけよ。そうしてへっと唇を歪めると、再び、ずんずんと歩き出す。

 泣いていた子供はそれを見ると、さらに泣き声をあげながらも、なんとか立ち上がり、それでもやっぱり母のあとを追う。

 タイボクは呆然とした。胸がきゅうっと苦しくなった。

 やがて小学生の群れが、ぞろぞろとやってくる。そのなかに京平もいた。

「おは、タイボク、何見てんの」
「あ、ああ、おはよ」

 タイボクは、ついさきほど見た親子のことを、目の前の京平にかいつまんで話す。うまく伝わってねえなあと思いながら。母親が蹴ったところは、見たよりもおおげさに、プロレスラーのようにやった。

「それ、ギャクタイじゃねえの」

 京平は少しも深刻そうではなく、笑いながら言う。ギャクタイだよ、ギャクタイだよ。

 そうやって言葉に出されると、もうそれ以外のなにものでもないように思われてきた。

「わざとじゃないんだよ、あの子供は。あれだけ急げば、誰だってころぶよ」

 あとから走ってきた、京平のおねえちゃんが追いついた。美香ちゃんは、近所の中学に通っている。このあいだ見たときより、さらに太ったような気がするが、そんなことはとうてい、口に出せない。けれどその頬はピンクに輝き、歩く太陽のようでとてもきれいだ。

「ギャクタイの母がいたんだぜー」

 京平は、美香ちゃんに向かって半分笑いながら、いかにも面白そうに話す。すると美香ちゃんが真面目な顔で言った。

「あんたら、子育ての苦労も知らないで、簡単にギャクタイなんて言うもんじゃないよ」
「へー、おまえは子供産んだこと、あんのかよ」
「ないけど、わかるよ。女だもん。あんたらクソガキとは違うもん」

 タイボクはびっくりした。美香ちゃんの言うことにもだが、京平が自分のおねえちゃんを、「おまえ」って呼んだことに。

「だってさーその親、子供を蹴ったんだよ」

 京平は、あたかも見ていたかのように、憤然と反論する。

 いや、蹴ったといっても、激しくじゃないんだ。つつくように、ころがすように、汚いものを確かめるみたいに、軽く蹴ったんだ。

だからこそ、怖かったんだ。

 タイボクはあの瞬間を巻き戻しながら、自分の目が何を見たのかを、もう一度考えていた。

「ワンシーンだけ見たって、映画全体はわからないでしょ。それと同じ。そりゃ、そのお母さんは、ひどい言い方をしたかもしれないし、蹴っ飛ばしたかもしれないけど、その子も相当、大変な子だったかもしれないし、それだけでギャクタイって、まだ早いってことだよ。でもそうやって見まもってあげるのは大事だよ」
「見たのはタイボクだよ」
「なんだ、あんたは見ていないのか。タイボクくん、よく注意して見ていたね。きっとこのへんに住んでる親子なんじゃないかな? きっと、コスモスの子だね」

 たぶん、そうだろう。コスモス保育園。タイボクも通った保育園である。

 見ていただけなのに、美香ちゃんにほめられて、タイボクは少し落ち着かない。

 園長先生はどうしているかな。


            
→19へ続く