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「ママは元気かい」

 園長先生に聞かれたとき、タイボクはなんと答えていいのかわからなかった。

「いま、いない。リコンしたんだ」

 喉元からうなぎみたいにするっと出た言葉。学校で級友たちの口から、時々聞くことはあったけれど、自分が使うとは思わなかった。家族が崩壊するのだと知ったとき、それによってすべてが終わりになるような気がしたものだったが、終わりと思ったのは一瞬だけで、崩壊のあとにも、毎日は続いていた。

 園長先生もその場にいた元吉先生も、表情を変えず、相槌も打たず、ちょっと固まり、小さな沈黙の谷が生まれた。

「じゃあ、おとうさんと二人で暮らしているんだね」
「うん」
「困ったことはないの」
「別に無いよ」
「ちゃんと食べているんだろうね」
「福包があるからね」
「なんだい、それ」
「餃子屋だよ」
「ほお、近くにある店なの」
「うん。安くておいしいんだ」
「そう、そう、いっつも行列しています。お昼の定食が異様に安いんです。あれで儲かっているのかしら」

 元吉先生が深刻そうな顔で横から口を出した。

「今度、わたしも行ってみたいね。うまく回っているお店は、何かどこかに必ず秘密があるんだよ。わたしも昔、食堂をやっていたの」
「へー。なんて食堂?」
「さんま食堂」
「うはっ、おもろ。さんまばかり出るの」
「そういうわけじゃないよ。働く人のために、家庭料理を作っていただけ。もちろんサンマ焼き定食はあったけどね。わたしはさんまが大好きだし、それにさんまというのは、なんだかそれだけで、笑い出しちゃうような名前でしょ」

 タイボクはさんまという名の、顔までさんまによく似たコメディアンの顔を思い浮かべた。

「いつごろのことですか」と元吉先生が聞いた。

「まだ病気がそれほどひどくないころ。少しずつ関節が痛かったり、顔にぶつぶつができたりしてねえ、変だなあとは思っていたけど、なにしろまだ目は見えたし、自分にはなんでもできると思っていた。若かったのよ」

「儲かってた?」とタイボクが聞く。それが一番大事なことだという響きに、園長先生はかすかに笑い、
「儲かっていたら、保育園はやっていないでしょうね」と答える。

「じゃあ、お店、つぶれたんですか」

 元吉先生が聞くと、なんでも問題がきりっとまじめになる。

「ええ。残念ながら。借金が残りました」
「お一人で?」
「そうよ。わたし、結婚したことないもの。でも助けてくれる男のひとはいたわ。いっしょにがんばっていたけど……」
「園長先生は、困っている人を見捨てておけないから、お金はいつでもいいよ、なんていかにもおっしゃりそうだわ」

 元吉先生は時々鋭い。本当にそんなことがあったというように、園長先生は、ぱちぱちっとまばたきをした。

「無銭飲食の人がいてね」
「ムセンインショク?」
「お金を払わないで食べて逃げることよ」

 元吉先生が眉毛を釣り上げながら、とんでもない、という感じで言った。タイボクは前にコンビニで万引きした、チョコバーのことをぱっと思い出した。すると、それが並んでいた陳列棚のまぶしさまでが、目の前にありありと思い出された。

「最初は仕方がないと見逃していたんだけど、甘く見られたのかしら、その人何度も来るの。今度こそ見張ってやるって、じいっと見ていると、わたしがなんにも言わないうちから、すみません、なんて頭をさげて」
「あー。園長先生、だめな男に弱いからなあ」

 そう言う元吉先生も、実は貧乏な男を見ると、なんとなくかまってやりたくなるところがあるのだったが、それは言わずに先を促す。

「ついには金、ないんですって、最初に堂々と言うようになったの」
「先生に甘えているだけじゃないですか」
「そう、そうね。そうともいえる」
「いえるじゃないでしょう。まったく園長先生は」

 だから潰れるんだわ、と言いたいのをこらえる。

「それで、わたし、さんまの定食は出せないけど、味噌汁とご飯だけならって。こっそりね、他の人にはわからないように。誰にでもするわけじゃないのよ。ただ、その人、目の下にくまがあって、賢そうな目をしていて、なんだか助けたくなる雰囲気があったの。人の気持ちと気持ちって、物質みたいなのよ。何か通じるとね、目には見えないけど、霧みたいなものが、心からもやーっと出るんじゃないかしらね。そのひとの心から出た物質が、わたしのほうに、流れてきたの。それが扉を開いたんだね。いいわよって。これだったら、食べなさいって、考える前に差し出してたわ」
            
→21へ続く