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 人の気持ちに寄り添える、園長先生は優しい人だ。けれどタイボクは不安になる。優しいだけでいいのだろうか。だから食堂はつぶれちゃったんじゃないか。

 数日前、珍しく早く帰宅した父と、タイボクは久しぶりに風呂に入った。鏡の湯気をぬぐいながら、父が言った。

「男の世界にはかけひきもある。タイボクも優しいばかりではやっていけないよ。いい人と言われて怒り出す人はいないが、いい人ばかりでもだめなんだ。男はつらいぜ。時には人も切り、悪人にならなければいけないときもある」

 父は仕事場で何かあったのかもしれない。

「えっ、人、切るの?」

 驚いたタイボクに、父はあわてて、「たとえ、たとえ」と笑って言った。

 大人の話には、たとえばなしが多い。要するに、時には冷酷になれ、ということらしい。

 こういうとき、ママがいると、ママはきっと口を出すんだ。つらいのは男ばかりじゃない。女のほうもつらいのよ。へんなかけひきを教えこまないで。

 するとパパも黙っていない。ふざけているうちはいいのだけれど、そこから妙に険悪になって、喧嘩が始まるというパターンはしばしばあった。

 だがもう、家にはママがいない。始まる喧嘩も始まらない。想像するのは無駄なことだ。

 タイボクは園長先生にもっと話を聞きたくなった。

「お金を払わない人はたくさんいたの?」

「いいや、そんなにたくさんはいない。それでも当時、さんま食堂のまわりには、その日暮らしの男がたくさんいたの。女や子供はいなかったね。男と野良犬と野良猫ばかりだった。ああ、それから太った鼠もね。
   独り者や、家族がいても別れた者、老いて働き口をなくした人。その日の仕事が見つからないと、食事はもちろん、泊まるところもない。地べたに寝ている人をよく見たよ。人間は簡単に転落する。一度落ちると速いんだ。地べたに寝たら、人間、おしまいさ。足で蹴られて転がされて、虫けら扱いでも文句は言えない。誰もがみんな食べられなくて、誰もがみんな、崖っぷちを歩いていた。だから助けるのも覚悟がいった。人を助けるのにもなかなか技がいる。自己満足に終わってしまうからね」

 人生の、暗い横丁に迷い込んだようで、タイボクはしんと、静かになった。たんたんと話す園長先生が、女親分のように頼もしい。

「ところで、お前さん、用事があって、ここ来たんじゃないのかい」

 そういえば、なぜ来たのか。横丁から、今度はいきなり保育園に連れ戻され、タイボクは一瞬、ぽかんとした。

「べつに――特別、何もないんだ。ただ、なんとなく、ここに来たかったんだ──」

 そのとき、大きな声があがった。

「さくら組、おおばやしれいかの母親です。お世話になりましたあっ!」

 園児のお迎えの時刻だった。

 ロビーの時計が五時を打つ。

 これ以降は、延長保育という名前の夜間保育が始まるのだ。

 まだ外は十分に明るいが、夕方という不安定な時間帯は、人間に不思議な郷愁を起こさせる。家へ帰ろう、家へ帰ろう。どこからかそんな呪文が聴こえてくる。家のない子はどうしたらよいだろう。

 タイボクは思い出す。むかし、ここで、ママを待って、ママがなかなか現れず、とうとうタイボクが最後になって、先生とふたり、虚しいしりとりをやっていた夜のこと。あんなことは、もう嫌だな。

 タイボクが残っていた一室が、そこだけ煌々と照らされて、周囲の灯りは、全て落とされた。

 ママはいつだって、ごめんねーとやってきた。謝る必要なんか、まるでないのに。ごめんねーと謝られると、ほんとにママが悪いような気がして、ママを責めたくなってしまう。

 園長先生が、ロビーに出ていくと、おおばやしれいかの母親は鼻の頭に汗をかきながら、目を輝かせて笑っている。

「おおばやしさん、大変そうね、仕事は順調?」

 園長先生の記憶力は、たいしたものだ。分厚い人名録が入っていると言われている。  

 声をかけられた母親は、ふっと表情をゆるめ、泣きそうな顔でうなづいた。

 向こうから、担任の若い先生に手を引かれて、小さな女の子が歩いてくる。

 れいかっ、と呼ぶ母親の胸のなかに、娘は、ぐにゃぐにゃと歩み寄る。

「れいかちゃん、今日も一日、元気でした」

 若い女の先生の報告に、れいかの母は安堵して笑顔を返す。

 かつて小さなタイボクは、迎えに来たママの元へダッシュで駈け寄ったものだった。れいかはそうではない。ぐずって、のろのろ、毛虫のようだ。集団のなかで疲れたのだろうか、大きな声で、いきなり泣きだしてしまう。

 タイボクは、いっしょに泣きたくなる。れいかのお母さんもそうかもしれない。

「さあ、帰ろう、アイスクリームもあるよ、れいかの好きなあんこを食べようね」

 おかあさんの必死の誘導も無駄のようだ。

 そのとき、タイボクは思い出す。コスモスに在籍しているらしい、別の園児のこと。

 母親に足蹴りにされていたあの子の残像が消えずにずっと尾を引いている。

「帰ろう、れいか、もう泣かないで、れいか」

 必死でなだめているお母さんが、あのお母さんのように、いつか爆発してしまうのではないか。タイボクは怖くなって、思わずロビーへ駈け出した。そうして歌ったのは、音楽の時間に習ったばかりの、「銀河鉄道999」。ゴダイゴというグループが歌っている。

     さあ行くんだ その顔をあげて
     新しい風に 心を洗おう

 腹の底から大声で歌う。

 自分のなかの泣いている子供を、はげますようにタイボクは歌う。
            
→22へ続く