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 朝、京平が遅刻してきた。

 いつもだって、決して「ゆとり」をもった時間に登校するやつじゃない。あれ、休みかなと思っていると、ぎりぎりになってからすべりこんでくる。すべて「計算済み」かのような涼しい顔をして。

 それが今日は、ひらりが出欠席を確認する段になってもおらず、一時間目の算数の授業の途中に、ようやく、後ろの扉をガタガタいわせて入ってきた。教室の扉はたてつけが悪い。すうっと開いたためしがない。遅刻してくるやつは、すごく嫌だと思う。あんなに派手な音がしちゃあ、面目丸つぶれ。だったら、早く起きろってことなんだけど。 

 入ってきた京平の顔を見るなり、タイボクはちょっと心配になった。顔色、悪くて、まるで幽霊。ひらりはそんな京平をちらっと見たあと、前の扉をあけて、廊下のあたりを確認した。送ってきた家族がいるかどうかを確かめたのだろう。もちろん、京平は一人できた。この小学校には小さな決まりがあって、子供が遅刻してくるときは、高学年といえども、登校の際に付き添う人が必要とされる。登下校という管理の目が届きにくい時間に、何かあっては学校が困るのだろう。

「どうしたの」
「あ、すみません。あの、あ、寝坊しました」
「ご家族からも連絡がなかったから、心配したよ。熱があるとか、体の具合が悪いわけじゃないのね? 具合が悪いなら、保健室へ行きなさい」
「あ、はい、大丈夫です。あ、どうも、すみません」

 京平は、「あ」から始めないと、何も言葉が出てこないかのように、ただただ頭を下げ続け、席に座った。

 隣の席の佐倉が、くすくす笑っている。佐倉は京平のことが、前から好きなんだ。京平は佐倉のことがそんなに好きじゃないけれどもね。佐倉も受験組だから、京平の状況がわかるのだろう。あの笑いは、わたし、あなたのこと、よくわかっているよ、のアッピールなのかもしれない。

 受験はしないと決めたタイボクも、実は本心では「受験」というものに少しあこがれていた。あこがれのなかにはおそろしく思う気持ちも含まれていた。受験の先には、合格・不合格という、冗談のような二つの分岐路があり、合格のほうへ行けば、そこには地元の中学へ行くのとは違う、まったく別の新世界が広がっている。少なくとも、そう見える。

 しかし不合格だったら地続きの地元の中学へ行く。ただ、それだけの話しじゃないかと思うのだけど、本人はきっと嫌だろうなとタイボクは思う。不合格という不名誉な看板を背負って行くのだから。もちろん、入ってしまえば、そんなことを気にする人はいないだろう。受験組だったかどうかなんて忘れてしまうに決まってる。けれど、今は、そう思えない。その今の重さを、受験しないタイボクも、うすうすとは感じている。





 昼休み、タイボクは京平に声をかけた。

「おい、大丈夫かよ、今朝、幽霊みたいだったぞ」
「はあー。半分、幽霊だよ。昨日、遅くまで勉強してた」
「山田塾でも、さすがにこの時期になると、勉強させられるんだな」
「違うよ、じしゅべん」
「じしゅべん?」
「自主的に勉強してたの」
「えらいじゃん」
「そういうことじゃない」
「だって自分でするのが、そのじしゅべんだろ。べん、って言うから、うんちかと思った」

 タイボクのからかいに、京平は笑いもせず、
「母ちゃんにやらされてたのっ。やっぱ、山田じゃ、受かんねえって」と少しヒステリックな声をあげた。

「で、お前はどう思うの」
「知るかよ。おれが」

 タイボクははっとした。京平はただ、与えられた問題をひたすら解くだけなのだろう。合格か不合格かは、最後に決まる。たった一日で。おそらく偶然も大きく手をかして。そのことが理不尽にも不思議にも思われたが、そこを目指してまっすぐに走っている京平に、タイボクはかける言葉が見つからなかった。

 京平のお母さんがちょっと心配になった。このあいだ、自転車に乗っているお母さんとすれ違ったとき、随分とおっかない顔をしていた。普段なら、何か声をかけてくれるはずだが、タイボクにもまったく気づかないというふうで、まっしぐらに思いつめ、どこかへ向かっていた。

 タイボクはずっと前に、京平や京平のお母さんから、一度、山田塾をのぞいてみなよと、誘われていたことを忘れていない。二人は、タイボクの作文を覚えてくれていて、作文指導を中心に置いた山田塾は、きっとタイボクにあっていると言うのだ。  

 でも塾は、無料ではないのだから、タイボクは山田塾のことを、今に至るまで、ついに父に話すことができなかった。

「山田塾じゃ、やっぱ、受験だめなの?」
「おれはそうは思わないけど、模試とかやると、あんまりいい点が出ないから、大人はすぐに心配して、きーきー言うんだよ」
「もしって何さ」
「模擬試験」

 そんな事も知らないのか、のんきだな、お前は。京平が言わなかった言葉を自分で補って、タイボクは自分に、小さなため息をもらした。
            
→25へ続く