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 その日、京平が連れていってくれた先は、塾というより、ただの古い民家で、それらしき看板すらも見当たらなかった。

 日本家屋だから、ドアではない。木の扉を左に引いて、またいで入る。と、そこにはけっこうな広さの玄関があって、子供たちの靴がすでに、揃えられてある。

 タイボクはなんだかどきどきした。

「ちわー」

 京平が大きな声をはりあげる。思わずタイボクは笑ってしまった。

「何で笑うねん」
「笑うねん、て、おまえ、いつから関西人になったんねん?」
「は? おまえだって」

 笑った理由は、それきりになってしまったけれど、京平の言い方は、めったに来ないけど時々家に来る、宅配のお兄さんにそっくりだったのだった。

 そのお兄さんは、ちわーという。「こんちには」のことだ。ありっすという。「ありがとう」のこと。「そうです」のかわりに、うっすと言う。自分のことは、「じぶん」と言う。決して「ぼく」とか「わたし」とかは使わない。

 タイボクもまねて、「ちわー」と言ってみた。京平よりもだいぶ小さい声だ。

「あがれよ」
「おまえんちかよ」

 京平にならって、自分の靴を揃えてぬぎ、とんとんと階段をあがった。

 数人のこどもたちが大机のまわりに集っている。正面に、あごから白いひげをたらしたおじいさんがいた。にこりともせず、京平とタイボクをじっとにらんでいる。

「新参者だね」

 しんざんもの、という言葉の意味がわからず、京平の顔を思わずのぞきこむ。すると京平も目が点になっている。

「新参者、新しく来た者のことだよ、つまりきみのことだ」

 タイボクは、シカと見つめられて、ふるえあがった。相手の声は怒っているように聞こえる。だが京平はあまり、怖がっていない。 

「はい。新しく来た、カミヌマです」
「よし。下の名は」
「タイボクです」
「わかった。そこに座りなさい」

 目の前のおじいさんには、余計な言葉というものがない。

 京平は、と振り返れば、やつはもう、役目を果たしたと言わんばかりに、大机の上に、自分のやるべきことを広げ、まわりの見知らぬやつらと笑いながら、挨拶を交わしている。学校にいるときよりも、楽しそうだ。

 タイボクは座布団の上に座りながら、子供たちの数を目で数えた。一、二、三人……全部で五人。京平とタイボクを入れて七人になる。

「わたしが山田です」と目の前の人は言った。「ここには先生といっても、わたししか、おらん。わたしは国語が専門だが、算数、理科、社会、何でも一応、きみたちには教えられる……と思う」

 ……の間が絶妙で、タイボクは思わず、けけけと笑った。すると先生も顔は決して笑っていないのに、目が緩んで笑ったような気がした。

「もしきみがここに来たいのなら、ここでやる内容は、きみ自身が決めなさい。ここは勉強するところだが、待っていれば、上から何かがふってくるわけではない。まず、自分が、わからないこと、できないこと、間違えてしまうことを、しっかり見つけなさい。問題が解けなかったり、わからなかったりすること自体はまったく問題ない。むしろ、問題なのは、わかったつもりになってしまうことだ。ここは、わからないということを大事にする塾です。ここがわからないと言えば、わたしはきみに知っていることは、全部教えます」
「はい」
「通ってくるのは自由だが、おやごさんの許可は必要だよ。月謝があるからね」

 月謝のことを言うとき、先生の声は少し小さくなった。

「今日は、体験というやつだから、様子を少し見ていくといい。他の子供たちもいるが、全体をまとめて授業をするわけではない。まあ、いわば、寺子屋かね。一人ひとりがばらばらなことをしている。子供たちはそれぞれ、わからないところをかかえて、ここに集まってきているんだ。上の子が下の子を教えることもある。教室のこの雰囲気を、今日は見て、味わっていきなさい。自分にあうかどうかを、ゆっくり考えてみなさい。気に入ったら、いつからでも来たらいい」

 タイボクは、おずおずと手をあげながら、質問した。

「あ、あの、作文が……」

 山田塾では「作文」を書かせられると、タイボクはさんざん、京平から聞かされていた。京平はだから、ここが、タイボクにあっていると言うのだったが、その根拠が、一度か二度、担任のひらりが、タイボクの作文をほめたということにすぎず、それをもってタイボクが、作文が得意だとか、書くのが上手いということには、まったく結びつかないとタイボクは思う。

 それでも褒め言葉は、人に魔法をかける。少なくともその気にはなって、タイボクがこの塾へやってきたのは確かなことだ。

「作文? ああ、作文か。ここでは確かに、原稿用紙を文字でうめてもらうが、最初は作文というより、誰かにあてて書く手紙だと思えばいい。今日も書いていくかい?」
「手紙……誰にあててもいいんですか」
「ああ、いいとも。よく知っている人はもちろん、普段、手紙を書きそうにない相手でもいい。死んでしまった人でもいいよ。例えば夏目漱石に書きたければ、書いてもいいんだ。内容は自由だから、喧嘩を売ってもいい」
「あはは」

 タイボクは、思わず笑ってしまった。

 山田先生が、原稿用紙を持ってきた。B4の大きな用紙に、縦書き、緑の枠で、マス目が並んでいる。

「好きなだけ書いていきなさい。紙、鉛筆はいくらでもある。わからなければ辞書を引きなさい。国語辞典は、常に机の上にあるよ」

 山田先生はそう言うと、他の子のいる大机のほうへ、すたすたと去っていった。

 京平はと見ると、むずかしそうな顔で、ノートを開いて、問題を説いている。やつ、今日、学校で出た、算数の宿題、「百題」の課題をここで片付けてるみたいだ。

 学校の宿題もやっていいのか。なんでもありなんだな。ここは。

 真新しい原稿用紙を見つめながら、一瞬、こころのなかに、風がとおりぬけていくような心地よさを感じる。自由、そう、自由だ。そのときの気持ちに名前をつければ、確かに「自由」という言葉になるのだった。

 なんだか、ここ楽しそうだな。タイボクは真っ白なマス目をじっと見つめながら、誰に出すかも決めないうちに、その一行目に、「お元気ですか」と書く。母の顔が浮かんできた。そのあとすぐに父の顔も。「ぼくは元気だ。ぼくは、ぼくは、いま、ここにきた。ここまできた。そしてきみに手紙を書いている」

 「きみ」というのが誰なのか、タイボクにもわからなかった。自分自身なのかもしれなかった。
            
※「悪態」第一部はこれをもって終了します。続編については未定です