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 タイボクは宿題をすませるという、すばらしきひらめきを脇において、広い図書館のフロアの端から端までを、まずはじっくり見てやろうと歩き出した。

 日本文学の棚には知る名前がいくつもあった。それだけで、一人ぼっちのタイボクは、仲間を見つけたようにうれしかった。

 芥川龍之介、夏目漱石。宮沢賢治。なかでも芥川龍之介は小説が教科書に載っていたし、自由研究で取り上げたことがあるから、タイボクにとっては馴染みの深い作家だ。教科書に載っていたのは、確か「父」という短い作品で、話の筋だけはぼんやりと覚えている。

 友達の前で、自分の父を恥ずかしく思い、父だと言い出せずに、他人のように扱ってしまったという、残酷で複雑でさびしい話なんだ。

 読んだとき、わかる、わかると思った。タイボクも、授業参観なんかで父の姿を見つけると、恥ずかしくなって父を無視してしまう。友達なんかは、運動会のようなビッグイベントでも、親に「来ないで」とか「来るな」とか言う子がいる。タイボクはそこまでは言えない。来なければ来ないで、ほっとすることもあるが、ちょっと寂しかったりすることもあるのだから、自分でも勝手なこころの動きだと思う。

 あの「父」という作品は、ここにあるだろうか。もう一度、それを読みたいと思った。この膨大な本のなかに、もし、それを見つけることができたら、自分はここにいることを許されるような気がした。

 どっしりとした芥川龍之介全集も見つけたが、文庫本のコーナーへ行くと、そこにもハンディな芥川龍之介全集がそろっていた。最初の一巻を手に取って目次を見る。果たしてそこに、「父」はあった。

 これだ、これ。深い森のなかで、わずかに知る仲間と偶然出会ったときのように、心弾んだ。タイボクはそこにつったったまま、「父」という短編を読み始めた。小さな文字がぎっしりつめ込まれていて、教科書で読んだときとは、感じが違う。

 どのくらい時間がたったろうか。読み終わったときタイボクは、自分が今ここにいることに、ひどくびっくりした。小説の時間のなかにすっかり入り込んでしまって、そこからいまここへ、急激に引き戻された。それは目眩に似た、時間の旅だった。

「父」というのはこんな話なんだ。

 修学旅行に行く中学生たちが、午前六時三十分、上野駅の停車場前に集合をかけられる。出発前、心を浮き立たせながら、だんだんと同級生たちが集まってくる。なかに、人にアダ名をつけては悪口三昧を言う、能勢という少年がいる。彼は停車場の人々を観察しながら、次々と辛辣な、しかしうまいところを言い当て、級友たちをおおいにわかす。一人の男が能勢に聞く。「あいつはどうだい?」 

 指差された男は、なんと能世の父だった。しかし彼はそれを言わず、「あいつかい。あいつはロンドン乞食さ」と平然と言ってのける。その場に集まっていた級友たちは、再び、大いにわく。「そいつは適評だな」と言う男子もいる。その男が、能勢の父であるなんてことは、誰も知らない。ただ一人、この小説の語り手である、「自分」を除いては。

 そう、語り手だけが、その人が能勢の父であるということを知っていた。そして思わず、下を向いてしまった。能勢の顔を見るだけの勇気が、自分には欠けていた、と書いてある。その同じところで、タイボクも目を伏せた。心のなかで。タイボクは、語り手であるのと同時に、能勢だった。停車場で、時間表と自分の懐中時計を見比べていた男を、自分の父であるかのように感じた。

 能勢の父は、おそらく能勢を見送りに来たのだろう。ひどいじゃないか、と思いながら、しかしタイボクはもし、自分が能勢の立場だったら、同じことを父にするかもしれないと思った。同じことでなくとも、同じように残酷な仕打ちを、父にしてしまいそうな気がした。自分のその予感が怖かった。 

 そうして今、自分の父は、どんなところで、何をして、どのように働いているのだろうと想像した。想像のなかの父は、厳しい顔をして忙しそうに身体を動かしていた。笑い顔はなぜか思い浮かべることができなかった。タイボクは文庫本を手にしたまま、再び歩き出し、棚を移った。

 日本文学の棚が途切れたとき、ふと横を見ると、そこにもう一つ、部屋の入り口がある。書庫という古いプレートが掲げられており、灯りの明るさが、そこだけ一段、落ちていた。タイボクを誘うように、ほの暗い。思わず足を踏み入れた。

 書庫のなかにもまた、ぎっしりと棚が続き、意外なほどの奥行きがある。

 書庫だから、本の倉庫。本のなかでも、とりわけ古い本が並べられているのか。あるいは需要の少ない、読まれなくなった本が集められているのか。つまり図書館のなかの図書館だった。人の気配がまったくない。タイボクはずんずん奥のほうへ歩いていった。

 突き当りに螺旋階段があった。降りてみろと階段の声がした。地下二階まで降りたところで、ここが図書館の「底」だとわかる。本の墓場のようだ。足元からひんやりとした空気がたちのぼる。蛍光灯が切れかかっていて、ついたり消えたりしているのが、いっそう不気味である。

 ぐぅとお腹が鳴った。ポケットに、盗んだチョコバーがあるのを思い出す。持っていた文庫本を棚の端に乗せると、タイボクはチョコバーを取り出し、そしてパッケージを引き破ると、獣のようにバーにかみついた。

 ここは傷ついた動物が傷をいやす穴蔵ではないか。地べたに座り、スチール製の本棚のひとつにもたれかかりながら、チョコバーをあっという間に食べ終える。眠気が来た。

 足元に散乱するチョコバーの包み紙。タイボクの寝息が、今、誰もいない書庫の隅々にまで広がっていく。すうすう。ふーは。すうすう。ふーは。その音は、一冊一冊の本を眠らせ、書庫を眠らせ、やがて螺旋階段を煙のようにのぼると、図書館を丸ごと、眠らせてしまうに違いない。 
            
→5へ続く