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「おまえのこと、だいっきれぇだ!」

 清崎に向かって、タイボクは叫んでいた。

右手のこぶしがぬっと伸び、清崎の顔面中央に命中する。ぐにゅっという、嫌な感触。柔らかな釘のように、やつの鼻筋がL字型に曲がった。鮮血が、二つの穴からほとばしる。

 やべっ。殴った理由は十二分にある。そう思いながらも、自分がなした暴力の結果に、タイボクはわなわなとふるえている。

 おとうさんは怒るだろう。おかあさんはこんなとき、がっかりして無口になるんだ。だけど、話せば二人には、きっとわかってもらえる自分のこの悔しさが――父と母はとうに別れたはずなのに、夢のなかではまだ夫婦をやっており、タイボクもまた、三人家族をやっていたころの自分を――二人をかろうじてつなぐセロテープとしての自分を――何の疑いもなく演じていた。

 首ががくっとくずおれる。

 はっとして、目が覚めた。

 背中のあたりがひどく痛かった。そしてしんしんと底冷えがした。

 最初に目に入ってきたのは本棚に並ぶ本の背表紙だ。自分がもたれていたのも本棚とわかって、思わず両手を見る。血は、ついていない。小さな光が、本棚と本棚のあいだのリノリウムの通路を照らしていた。それを見ているうちに、現実がだんだんと戻ってきた。頭のなかは混乱していたが、夢だとわかって少しほっとしていた。

 一週間くらい前のこと。給食のとき、やつはタイボクのカレーの皿に、上からさらさらと、ふりかけみたいにして、消しゴムのカスをふり入れた。そのときは驚いて、「なにすんだよ」とも言えなかった。カスをはじき、何も問題は起きていない、というように、ひどく冷静にカレーを食べた。清崎の顔は見られなかった。みんな、知っていたが、見なかったふりをした。清崎というやつは、そんなふうに、ときどきターゲットを一人決めて、あまり愉快でない、いじめを行った。

 先生は? わからない。見ていたのかもしれないし、気が付かなかったのかもしれない。タイボクは、かわいいばかりで、生徒を叱ることもない、「ひらり」に何も期待していない。いつもひらひらしたフレアスカートばっかしはいてるから、ひらり。

 そのひらりが、見知らぬ男と手をつないで学校近くの交差点を渡るところを、昔タイボクは見たことがある。

 あのときは驚いた。先生というのは学校と教室が生きるすべての場所なのかと思っていた。しかし先生にも、学校を出れば、先生だけの時間がある。それに初めて気づいた瞬間だった。学校で、生徒全員から、なめられ尽くしているばかりのひらりは、学校を一歩出てしまうと、まるで教師には見えず、ただの若い女になった。

 今頃になって吐き気がやってきた。吐き気のなかに、夢の続きの怒りが混ざっていた。飛び散った血、L字型に曲がった清崎の鼻。すべては消えたが、残っているものもあった。恐怖と怒り。あれだけは本物の感情だった。

 リノリウムの暗い通路が、まだ夢のどこかに繋がっている。周りをゆっくり見渡しながら、タイボクは心に一つ一つ確認事項を刻みつけていった。

① そうだ、ここは図書館だ。
② そしておれはここで寝入ってしまったんだ。
③ 静かすぎる。
④ みんな帰ってしまったのだろうか。
⑤ なぜ、オレに気づいてくれなかったのだろう。
⑥ いま、何時だ?
⑦ どこかに電話はないか。
⑧ あたたかいココアが飲みたいよ。
⑨ どうやったら、ここから出られるだろう。

            
→6へ続く