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 それから、ようやく父の顔を思い出し、鍵のことに思いが至った。

 タイボクは立ち上がり、出入口まで歩き出したが、書庫の扉は封じられていた。どうやらここに閉じ込められてしまったようだ。

 扉をたたいてみる。誰かいませんかと言ってみる。答えはどこからも帰ってこない。朝が来るまで、ここにいるしかない。覚悟を決めたが、恐怖は消えない。それでも目は、段々と薄闇に慣れてきた。

 階段をずっと降りてきた記憶が蘇った。窓もない。そうだ、ここは地下。どおりで寒いはず。足の下から冷気があがってくる。どこかで始終、水の流れる音がした。夜が更けて、多くの人間が活動をやめてしまったあとも、こうして水は流れやまない。雨が降っているのか。あるいはマンホールの下を流れる下水の音なのか。か細い水音が、タイボクには、ここと外とをつなぐ命綱のように思われた。

 少し落ち着くと、匂いにも気がついた。古い本の匂い。普通、本は読んだり見たりするもの。嗅いだりはしない。本を嗅ぐ……。タイボクはこの言葉を頭のなかに思い浮かべて少し笑った。

 しめっぽい紙の匂い。すっぱいような、香ばしいような。懐かしいと言ってもいいかもしれない。書庫だから、とりわけ古い本が並んでいる。古い本は古い人のようで、少し怖かった。

 不意に尿意を覚えた。

 確かトイレは書庫の外にある。それを考えて、一気に青ざめる。果たして朝までもつだろうか? 眠るにしても、冷え冷えとした床に横たわるのは嫌だった。仕方なく、本でベッドを作ることにした。一番重くてしっかりした本で……。本棚の一番下に、全集らしきものがある。目を凝らすと、日本古典文学全集だった。一冊一冊を、片端から取り出し、床に並べる。各巻、厚みが微妙に違う。その上に静かに横たわってみた。凸凹したところが、背中にあたって痛い。身体が動くと、下の本もずれた。本と本の、ほんの少しの隙間からも、冷気がたちのぼり身体を冷やす。それでも床に直接、横たわるよりは、はるかにましだ。

 掛け布団が欲しかったが、ここには新聞紙一つ見当たらない。前に学校の避難訓練で習ったことがあるのだ。何もないときには、紙一枚でも、案外体温が保持されると。ふとひらめくものがあって立ち上がると、タイボクは棚の一番下から、図鑑のような大判本を取り出し、それを開いて、胸の上に置いた。重かったが、紙の温もりがそこにだけ、広がった。ごめん。本よ。読まずに嗅いだり、寝具にしたり。

 父が自分を探している、と思った。このごろなんだか機嫌の悪い父。この一件でさらに怒るところを、タイボクは見たくない。

 大丈夫さ。朝はすぐに来る、朝はすぐに来る、朝はすぐに……。窓のない地下には朝の光も届かない。罪を犯した人は、もしかしたらこんなふうに朝を待つのか。唐突にやってきた自分の考えに、はっとしてポケットをまさぐる。そこに盗んだチョコバーはなかった。とうにタイボクの胃袋のなかだ。えびのように丸まり静かに朝を待つ。タイボクは再び、眠りに落ちていった。

 タイボクを発見したのは、その日、朝当番にあたっていた、管理会社の男性職員だ。いつものように書庫の扉を開いたとき、目の前の床に見慣れない固まりがあり、それが髪の毛と顔と手足を持つ人間とわかって、わぁっと叫び声をあげてしまった。死んでいるのかと恐る恐る近づけば、相手は子供で、本の上に寝ている。胸にも本が掛け布団のようにかけられていた。

「あー驚いた。どしたの、こんなところで」

 ゆさぶると、子供は目を覚まし、「おしっこ、おしっこ」といきなり言った。

「出て右だよ」

 走りだしたタイボクの身体の上には、ついさっきまで、相撲取りが乗っていた。重い、重い、とはねのけようとしたが、相撲取りは決して、どいてくれなかった。駆け込んだトイレで放尿する。全身の縄が解けていった。おしっこはなかなか終わらなかった。終わりそうになるが、またそこから長く出た。ようやく終わって戻ってくると、男が笑いながら、大変だったなあ、と呑気な声を出した。

 彼にしてみれば、よくここでしなかったなと、胸をなでおろしていたのだ。図書館が閉まってから朝までの間に起こったことは、すべて管理会社の責任になる。以前、閉館間際に、なかなか帰らない閲覧者がいて、男が事情を聞くと、家がないということだった。「ここに泊めてもらえないか」と言われたけれど、泊めてやるわけにはいかなかった。ちょうど台風到来で、外は暴風雨だったが、それでも男は、その人を追い出した。

 男は目の前の子供の、全身をつくづくと眺め渡した。

「大丈夫かい」
「あの……昨日、ここの奥で寝ちゃって、そしたら扉が閉まっちゃって……」
「そうだったのか。おじさん、びっくりしたよ。おとうさん、おかあさん、心配してるでしょ。探したんじゃないの。すぐに連絡しなくちゃ」

 高校を出て以来、ずっとこの管理会社で働いてきた男は、あと少しで定年を迎える。会社ではチーフ以上の役職に付けず、結局、こうして最後まで、一警備員として現場に立ち続けている。今までは、人が不在になる夜間のビル管理が主な職務だった。近頃はこうした図書館や学校管理の仕事が増えた。今、学校には、昔のような用務員さんはいない。いるのは警備員さんばかり。男の感覚でいえば、学校も図書館も「商売」というものにはなじまないが、近頃は、閲覧者も生徒も、お客さまという扱いだ。

 この図書館も例外ではなく、受付に並ぶのは、必ずしも資格を持った「専門家」ではない。本の受け渡しを行うだけの「会社の事務員」だ。利益が出るわけではないので、「いらっしゃいませ」という言葉こそ使わないが、ほとんどそれに近い応対ぶりといっていい。昭和の人間である男は、担当直後から違和感を覚えていた。

 受け持ちであるこの図書館は、本来、夜間に必ず見回りをすることになっている。朝、昼、夜間の三人のローテーションを組んでいて、その日、朝番の担当だった男は、前日の夜間担当者と交代するはずだった。その人が来ていない。つまり同僚は、何らかの事情で、夜の見回りをさぼったのだった。

「あのね、きみがいきなりおうちに電話するより、最初におじさんが、親御さんに説明しよう。そうだ、そのほうがいい。電話番号は?」
「ムシゴロシヨメニクルナヨ」
            
→7へ続く