第十九回
「朝日新聞の関東軍司令官」
武内文彬・奉天通信局長
 満洲事変を機に、日本の新聞は変質したと言われている。それまでの自由な言論は失われ、新聞は軍(特に陸軍)に歯向かえなくなり、政府の宣伝機関に成り下がったと。その経緯については元毎日新聞で、ジャーナリズム論学者に転じた前坂俊之・静岡県立大学教授の『太平洋戦争と新聞』が詳しい。その中には戦前の朝日新聞の第一人者・緒方竹虎の戦後の反省の一文も引用されている。
「実際、朝日と毎日が本当に手を握って、こういう事の政治干与を抑えるということを満洲事変の少し前から考えもし、手を着けておれば出来たのじゃないかということを考える。軍というものは日本が崩壊した後に考えてみて、大して偉いものでも何でもない。一種の月給とりに過ぎない。軍の方からいうと、新聞が一緒になって抵抗しないかということが、終始大きな脅威であった。今から多少残念に思うし、責任を感ぜざるを得ない」
 戦後になれば何とでもいえるという典型の殊勝な反省である。軍人が「月給とり」だったことは間違いないが、新聞人も同じく「月給とり」だった。「月給とり」の集まりだから、社会の木鐸を自称しながら、戦争報道による部数アップに満足し、在郷軍人の不買運動や右翼の脅しに怯えたのではなかったか。と、大上段に構えてもしょうがないので、ここでは朝日新聞の一人の記者の目を通して、満洲事変、満洲国建国、国際連盟脱退を追ってみたい。その人物とは武内文彬あやよしといい、柳条湖(当時は「柳条溝」と間違って表記された)事件当時、奉天にいた。明治二十一年(一八八九)生れで、明治大学法学部を卒業、中外商業新聞(現在の日経)に入社し、大阪朝日新聞に転じた。中国に留学した支那通の経済記者で、昭和二年(一九二七)には大連通信局長、その後、問題の年、昭和六年(一九三一)三月に奉天に赴任した。武内は『証言・私の昭和史1』、『昭和史探訪1』、『語り継ぐ昭和史1』などで当時の仕事ぶりを語っている。一番詳しい『昭和史探訪』を中心に証言を追っていくことにする。
「それまでは、ハルビンと奉天と大連に本社直属の特派員がいたんですが、なにか大きな事件が起こるというようなことがあった場合には、やはり関東軍司令官というようなものがいなきゃならないですね。それで私がのちに奉天の初代通信局長になったのを機会に、満洲関係の通信関係は全部私が統率することになりました。満洲の[取材]旅行から帰って、あらためて昭和六年三月二十八日に赴任したんです。「朝日新聞の関東軍司令部ができた」なんて言われたものです。それで五月二日に関東軍に挨拶に行った。司令部がまだ旅順にあったときです。行ったら、高級参謀の板垣征四郎大佐が、私を見るなり「おお、きさま泥吐け」と言うんですよ。それで私は、「板垣さん、ぼくはほかの毒はあるかも知らんけれども、泥はなめていない」と言った。すると、「きみ、最近本を書いたな。あの本を見るというと結論がついていない」「いや結論は神戸で書いて本社へ送った。ちゃんと結論は出ていますよ」そうしたら板垣さんは、「とにかく今日は時間をくれ、全参謀を一室に集める」と言うんですね。それで二時から五時までやったんです」
第19回    第19回
右:武内文彬(1889-?)満洲事変当時の朝日新聞
「関東軍司令官」奉天通信局長
左:三國一朗・井田麟太郎編『昭和史探訪1昭和初期』
(角川文庫 1985)

 武内は北京特派員時代に板垣と知り合っていた。本庄繁が北京公使館付武官だった時、板垣は武官補佐官として本庄に仕え、武内とは飲み仲間だった。大正十三年(一九二四)から十五年(一九二六)までの間のことである。板垣が言っている武内の本とは東京朝日新聞から出た『満洲の諸問題』という本のことである。この本、国会図書館その他で探したのだが、どうしても見つからない。どうなっているのだろうか。本がないので、ここで板垣が言わんとしていることがいまひとつわかりにくい。ここでの問答はひとまず措き、当時の武内の仕事ぶりを本人のペンにより紹介しよう。『満洲・上海事変全記』という昭和七年(一九三二)四月に朝日新聞社から出た本で、記者たちが署名で原稿を寄せている。武内奉天通信局長の分担は「その当夜」である。
「その当夜! それは爆音と、感激と、昂奮とのそれであった。/浴槽の中で聞いた硝子戸を破り家々を揺がすようなあの爆音。けたたましい電話のベル。「アナタ電話です、国家の一大事だそうです、お風呂どころの騒ぎじゃないそうです……」と叫びながら、転がるように階段をかけ降りて入浴中の私に急を告げて呉れたあの妻の姿、妻の声。/続いて起った重砲の爆音、消防隊の警笛、機関銃の響。(略)……身体も拭かずに浴槽を飛び出して、何一つ身に纏わず、ビショ濡れの身体を椅子に埋めたまゝ打電し、電話にかゝり、ボーイを起し、写真を頼み、活動写真の撮影を命じ、電話を受け、打電し、電話を受けて打電し……たのが事件勃発瞬間の私と妻の姿であった」
 新聞記者としてはずいぶん調子の高い、大時代な文章である。事変の昂奮が半年も立つのにまだ醒めていない。素っ裸のガンバリがよほど気に入っているのか。現地の朝日「関東軍司令官」なのだから当然、と解すべきかもしれない。「朝日新聞奉天通信局は勿論徹夜だ。昂奮だ。感激だ。妻も、女中も、ボーイも、販売店も、オールアサヒ関係総動員の活動だ。/翌十九日午前七時、ヒッきりなしに徹宵てっしょう電報を打っていた私の右の手首が痛み始めた。それもその筈、事件勃発後八時間ばかりの間に驚くなかれ百十八通の至急電報ウナデンを本社にかっとばしていたのだ。それは朝日新聞開闢かいびゃく以来のレコードであった」。奉天では徹夜、半徹夜が続き、武内が次にお風呂に入れたのは八日も後であった。
 朝日の記者が皆々、武内のように昂奮しいていたわけではない。『満洲・上海事変全記』で「その翌朝」の項を書いた園田次郎は冷静な筆致である。園田は大森の自宅で就寝中に会社からの電報で起こされた(東京の郊外ではこの頃、「電報!」と偽って深夜に侵入する「電報強盗」が流行っていた。園田の妻はてっきり電報強盗が来たと誤解して真っ青になったという)。タキシ―で出社すると、編集局は大騒ぎになっていた。園田はまず奉天通信局からの電報に目を通した。武内の右手が叩いた最新情報である。「僕は電報を一通り読んで、やっと事件の全局が判然とした。そうするうちにも、奉天からの電報は次から次と整理部の机の上に運ばれて来る。形勢は刻々に重大化しつゝあるのだ」。夜が明けると、園田はすぐ外相の幣原喜重郎に取材をかける。この日の幣原はいち早く登庁した。幣原の血色のいい顔は蒼ざめ、頬の筋肉が痙攣的に引き吊っている。「僕は幣原外相がこんなに昂奮しているのを見たのは、佐分利[貞男]公使が自殺したときと、この時だけである。よほど大きな衝撃を受けたのだ」。園田の文章の方が情報量は遙かに多い。園田は閣議が終るのを官邸で待っているところに、社から電話で、すぐに奉天へ出発せよと社命が下った。大挙、記者が現地に派遣される。
 戦後の「天声人語」を長きにわたって執筆した荒垣秀雄も、満洲に派遣された一記者だった。荒垣は『満洲・上海事変全記』に、「嫩江のんこう、チチハル戦を観る」を書いている。
「満洲事変を通じて一番大きな戦闘は嫩江、チチハル戦だ。私は計らずもその戦線に従軍した。私は当時奉天に於て待機中だったが、嫩江支隊が出るという事を奉天通信局が知って、私に出動命令が下った。十一月一日だ。その日私の留守宅では赤ん坊が生れた、という電報を受取るや直ぐ出発したのだが、こういう点、新聞記者は兵隊と変らない。/その夜、四平街から軍用列車に乗り込んだ。この四洮線しとうせんが当時最も馬賊の危険なところで、吾々の貨物列車は夜は燈火管制、昼もドアを閉めたまゝ走った。(略)兵隊達は何処へ行くのか知らなかった。私が地図をひろげると皆が寄ってきて聴くので、私も知らないふりをしていた」
 荒垣記者が記すように、武内「関東軍司令官」には刻々と関東軍の情報が入ってきていた。あらかじめの情報により、人員を適切迅速にニュースの現場に送り込める。他社を出し抜ける。武内の場合は、関東軍作戦参謀の石原莞爾中佐との太いパイプがあるから、こんなに確実な情報はない。荒垣は一記者ではあるが、参謀部から出た情報をもとに現地へ出発していた。武内「司令官」は戦後になっても、石原への感謝を隠していない。
「その次が熱河省とチチハルをやるかやらんかということでした。それでわれわれは新聞社としての立場から、作戦行動が始まる前から、何日にどこへ進駐して、そこの戦争はどういう結果に終わるかということが、やっぱり非常に大切なんです。そういう点で石原さんという人は私に特別ウエートを置いてくれたように感じたわけです。作戦課長ですから、いちいち日時を指摘して、こういうふうになるからこうすると言われる。すると、われわれは飛行機をどういうふうに準備せにゃいかん、速記者をどことどこに配置するか、などを決めてかかる。(略)たとえば奉天へ溥儀執政(宣統帝)が来る。例の甘粕[正彦]大尉と土肥原[賢二大佐]が天津へ行って溥儀をひっぱり出して、船へ乗せて営口へ上がって、湯崗子とうこうし温泉へ来た。これなんかも何月何日どこへ来るという秘密の情報が入るわけです。こちらは信頼されているから、どんどん入る。(略)……溥儀の満洲入り第一報の大写真は他社を大きく引き離したんです」(『昭和史探訪』)
第19回   第19回
右:『語りつぐ昭和史1激動の半世紀』
(朝日新聞社 1975)
左:テレビ東京編 きき手=三國一朗『証言 私の昭和史1昭和初期』
(旺文社文庫 1984)

 武内は最も重要な取材対象に喰い込んでいた、ということだ。この取材対象が悪名高い「関東軍」だからけしからんということは言えない。現場の新聞記者としては当然の仕事であろう。これを以て武内を批判するのは現実離れしている。武内が石原との信頼関係を築くきっかけとなったのは、冒頭に記した昭和六年五月二日の関東軍司令部挨拶の時だった。この時の三時間の「密談」では、八割五分は石原と武内が発言した。
「談合は、まず作戦課長石原中佐からの「北伐中の蒋介石は旧軍閥と違うかどうか」という、本格的な質問が出ましたので、これは凄いぞと思いました。話は、支那の政治、経済、社会問題から、張作霖、張学良批判に及び、満鉄包囲鉄道網の問題から、日本の満洲政策などなど、すこぶる深刻かつ多角的にわたりました。/しかし、いずれも核心に触れた、かつ理論と現実に深く食い込んだ、満洲事変関係にも、もろもろの明示・暗示を得られ、たいへん有益な会合でありました。全参謀より親しく専門のお話が聞かれ、それにお互いに顔見知りになったことが、事変発生後、殊のほか大きな便宜が得られて感謝したものでした。この会談での圧巻は、石原参謀と親しく相許すなかとなったことと、板垣参謀との親密度を加えたことでありました。(略)
 イザ別れの間際になると、板垣高級参謀が私に対して、「君の満洲問題解決策を一言でいえば……」と質問せられて、私はとうとう次のような、板垣さんのいわゆる「泥を吐いて」しまったのでした。/そこで、私は右の手にゲンコツをつくって、参謀の前に突き出しながら、/「関東軍ではこのゲンコツ、、、、武力、、)で行きたいのではないかと思いますが、張学良は利口だから、ノレンに腕おしで、結局その機会が与えられないのではないでしょうか」/と申したまま、お別れしたのでした」(『語りつぐ昭和史1』)
 武内と石原の蜜月を世に伝えるものとしては、昭和七年(一九三二)一月十一日に奉天ヤマトホテルで開かれた大阪朝日新聞主催の「新満蒙の建設」という日支名士の座談会がある。表に出ることを好まない石原中佐が出席し、自らの「転向」を表明した記念すべき座談会である。出席者は中国側が于冲漢ら六人、関東軍は石原、松井多久郎新聞班長、片倉衷参謀、駒井徳三統治部長(後に満洲国初代総務長官)、奉天総領事館からは森島守人領事ら、満鉄からは村上義一理事、衛藤利夫奉天図書館長、その他、多士済々であった。朝日側も東西両朝日から部長級が五人も来た。司会をしプロデュースをしたのは武内であった。
 石原はここで持説の満洲領有論を撤回し、満洲国独立国家への支持を公然と表明した。「支那の有力な方[于冲漢、丁鑑修]がそういう御希望ならば、それがいいに決っていると考えます」、「日支両国民が新しい満洲を造るのだから日本人、支那人の区別はあるべきではない」、「[満鉄]付属地、関東州も全部返納」、「日本の機関は最少限度に縮少し、出来る新国家そのものに日本人も支那人も区別なく入って行くがよろしい」(『現代史資料11 続・満洲事変』所収)。
 武内が朝日報道で果たした役割については、朝日は二〇〇八年に出た『新聞と戦争』で総括している。『新聞と戦争』は紙面に連載され、朝日が総力を挙げて自らの戦争責任を追及した検証報道である。その第8章は「社論の転換――満州事変、その原因、その後、別の道」と題されている。柳条湖の満鉄線路爆発の当夜、武内のヌード・シーンからこの章は始まっている。そこは私と同じ、というか、私が『新聞と戦争』を読み、さらにはそのネタ元といえる前坂俊之の『太平洋戦争と新聞』にさかのぼっているので、武内の入浴シーンは美味しい細部として注目するのは当然だった。『新聞と戦争』が下した武内の勤務評定は以下の通りである。
「社論の基礎となる現地電を送ってきていたのは奉天通信局長の武内文彬。事変を主導した関東軍の石原莞爾参謀との親密さを自負する記者だ。社の上層部は、その関係を危ぶみつつも、激しい報道競争の中で、武内を重宝がった。/緒方[竹虎。満洲事変当時は東京朝日の編集局長]はいう。/「武内君は初めから石原との連絡があったらしく、しきりに積極論で通信してきたが、しかし事変の当座としては、社としても武内君あることによって随分助かった」(社内資料)/軍の行動を「当然」と認めてしまった以上、その後の修正は難しくなる。日々、限られた情報で判断せざるをえないのが日刊紙の宿命とはいえ、ボタンの掛け違いは禍根を残した」
第19回   第19回
右:朝日新聞「新聞と戦争」取材班『新聞と戦争』
(朝日新聞出版 2008)
左:前坂俊之『太平洋戦争と新聞』
(講談社学術文庫 2007)

 新聞的な両論併記だが、「社の上層部」が武内と石原ら関東軍との関係を「危ぶんだ」という証拠は紙面では記されていない。「社の上層部」というのも曖昧で、誰を、どこを指しているのだろうか。武内は大阪朝日所属だから、東京朝日の緒方というわけではあるまい。「上層部」が大阪か東京かはっきりせず(当時は大阪が朝日の中心)、「上層部」が経営陣なのか、それとも社説を書く論説陣なのかもはっきりしない。『新聞と戦争』は、軍の謀略を、新聞が後押しし、事実の検証を怠ったと反省しているが、武内をスケープゴートにして、それ以上の社内の追及は手を緩めたという印象が残る。
『新聞と戦争』では、『昭和史探訪』の武内の言葉を引用している。「満洲事変というものが起こらなかったら日本はつぶれているんです」、「やっぱり石原さんと志を同じうして満洲事変をやったということは、非常な幸福であったと思うんです」。二つの言葉から、武内が「記者活動を通じて事変の一翼を担った」と見ている。『昭和史探訪』を読み直すと、この二つよりも重要な言葉がある。
「それが満洲だけに留まれば、その後の問題はなかったと思うんです。だから北京の盧溝橋で事変(昭和十二年)が起こって支那事変になったという瞬間に、これでもうだめだと。石原さんと二人で話したんですよ、日本は中国と事をかまえちゃだめだ、北支へ進出するというようなことは、これはもう絶対にだめだと。/満洲の朝日新聞関東軍司令官としてあの事変[満洲事変]を日本がアグレッサー(侵略者)といわれない形において収拾する道は何かと考えていたんです。/それで私はいよいよ満洲国ができるという瞬間に、「満洲建設経済座談会」というのを、三十数人集めまして、六時間やったんです、朝日新聞で」
 武内がここで喋っている座談会は、石原が「転向」を表明した座談会と同じものである。武内プロデューサー、あるいは武内「司令官」は、「侵略」の汚名をかぶせられないために石原と同調していたというのだ。武内が悔やんでいるのは、昭和七年八月の本庄司令官以下の関東軍首脳人事の交代である。「本庄時代の政策が、その思想と現実においてずっと継続されたなら、満洲国は、ああならなかったと思うんです。/武藤信義司令官時代になって、小磯(国昭)さんが参謀長になってきて、本庄時代にせっかく「治外法権」を満洲国に返すというところまで進んでおった政策が一変した。五族協和主義が帝国主義に一変してしまったのです。日本の準領土だという扱いが始まった。それが根本的な間違いのもとであったわけです」。昭和七年夏に満洲国は変質したという説である。よく言われる説であり、この検証も必要であろう。武内は戦後は明大教授、和光大教授を歴任した。朝日との関係は切れていた。昭和三十五年(一九六〇)に武内の発言を聞いた元満洲国総務庁主計処長だった飯沢重一が「史家の認識に訴う――私の体験からみた満洲国」(『あゝ満洲――国つくり産業開発者の手記』所収)という文章で竹内の意見を紹介し、自身の感想を述べている。
「終戦十五周年記念の会合が陶々亭であった時、建国当時、朝日新聞の満洲総局長だった武内文彬氏が一場の感想談で、「自分は全く自由人で言いたいことを言う人間であるが、当時、政府や軍の人々と交際したり、実際にみて、満洲国には日本の侵略性はなかった。これは正に日本の最も大きな平和的な所産だった。後世史家は必ずこれを証するであろう云々」という意味のことを述べた。初めて氏の話を聞いたのだけれど大いに感銘を深くした。/大東亜戦が勃発して、日本軍閥、否、日本政府の責任で戦争が進められ、それが窮地に陥ってからは、双葉の満洲国からも吸い取らなくてはならなくなったが、これは戦争のため貧すれば貧する関係で、建国の理念とは別個の問題として、後世の人々に間違いなく理解して貰わなければならないことである」
 飯沢も武内と同じく、満洲国は途中から変質した説である。その時期と原因は異にするが、建国当初の理想を守護することでは変わらない。『新聞と戦争』は武内の満洲建国礼賛を否定するのはいいとして、武内史観に一顧だも与えずに無視するのでは、先輩記者の仕事を検証したことになるまい。『新聞と戦争』は当時の朝日のゼネラルエディター(主筆みたいなものなのだろうか。ヘンな肩書だ)外岡秀俊の発案で始まった企画である。朝日の論調の変化は満洲事変を境ととしてあった。その「歴史の背景と、それ[論調の変化]を受け入れた記者たちの葛藤があったに違いない」というのがスタートだった。しかし、武内の「葛藤」は残念ながら取り上げられない。その構造的理由を考えると、取材方針として、「事実とデータをして語らしめ、客観描写に徹すること」という制約があったからではないか。もう一つ挙げるなら、新聞記事でお馴染みの短文で書き込み、暗示ですませるという書き方も災いしていないか。外岡の指示した新聞的手法では、いくら丁寧に事実とデータを積み上げても、あらかじめ設定された歴史観の中で、いまある歴史を丁寧に追認することにしかならないのではないだろうか。同じ資料を読んで、同じ状況を考えようとしていると、『新聞と戦争』は歯がゆい。せっかくのいい企画なのに、戦後体制の優等生が書く模範答案の域を出ていない。
第19回
図版提供:鳥取県南部町立「祐生出会いの館」

『新聞と戦争』の巻末には、識者の連載への感想が載っている。『満洲における日本人経営新聞の歴史』を書いた旧満州出身の李相哲・龍谷大学教授は、当時の日本にはまだ「言論の自由」があった、と述べている。「連載で紹介された、軍部を批判した九州帝大教授の今中次麿や、満蒙権益放棄を主張した石橋湛山も、関東軍を批判した東京帝大教授の横田喜三郎も逮捕されて拷問を受けたわけではない」。今中が九大を去らざるを得なくなるのは昭和十七年(一九四二)だったと『新聞と戦争』に書かれている。十年の時間が、十年分の余地がまだあった、という考えも成り立つ。李教授の見方は厳しい。
「奉天通信局長の武内文彬が「支那側の計画的行動であることが明瞭となった」と打電してきたが、彼は石原莞爾らが満洲事変を起こしたということを知っていたと思う。/問題はその時に、朝日がなぜ事実を誤認したかだ。事件は何ひとつ明瞭でなかったが、朝日は中国側の仕業と断定した。事実を掘り下げることをせずに、軍部の主張に同調してしまった。/朝日は、満洲事変前から「平和主義」が批判され、不買運動も起きていた。「平和主義」を貫くには負担が大きかった。厳しく言えば、当時の朝日は社益のために社論転換の契機をうかがっていたのではないか」
 朝日社内での社の方針への反逆は整理部で強かった。上がってくる記事や写真を紙面に組み、見出しを作り、紙面を読者にわかるように編集していくのが整理部である。整理部のさじ加減で、ニュースは大きくも小さくもなり、見出しによって同じ記事であっても、ニュースの印象は大きく変わる。朝日の記者だった後藤孝夫の『辛亥革命から満州事変へ――大阪朝日新聞と近代中国』は、大阪朝日の日中関係社説の変遷を辿った浩瀚な書で、『新聞と戦争』でも、もちろん利用されている。当時の大阪の編集局長は高原操だった。かねがね日本の大陸政策を批判してきた論客である。その高原に焦点をあてている。柳条湖の第一報、昭和六年九月十九日の第一面は、東京では最大級の扱いだったが、大阪は一面トップにはしたが東京とは違った。
「写真や地図どころか、「奉軍満鉄戦を爆破」というかんじんの<発端>を見出しに出していない。(略)事変の第一報を受けとった整理部員の頭をよぎったのが、軍部ついに「脱線」かの疑惑だったとの推測は、十分成りたつ。(略)とにかく、軍部の謀略によって苦汁をのまされた経験なら、過去にいやというのほど味わったという自覚もあったのである。翌日の社説≪日支兵の衝突/事態極めて重大≫(9・20)は、関東軍から流される情報しかないままにその行動を一応容認しながらも、あくまで戦闘行為の不拡大と早期の局部解決を力説し、「特に此際出先き軍部に対して必要以上の自由行動をせざるよう厳戒すべきである」と的確に釘を刺していた」
 後藤の調べによると、事変後最初の役員会は九月二十五日に開かれた。ふだんはほとんど顔を見せない村山龍平老社長も出席したから、「その重大さが察せられる」。黒龍会の内田良平から朝日への申し出があり、対応を協議し、事態の収拾が図られたのだ。後藤は内田の背後に軍部(陸軍参謀本部)がいたとほぼ断定している。黒龍会は朝日にとっては不吉な名前である。大正七年(一九一八)の白虹はっこう事件で、紙面の不敬をなじり、村山社長を襲撃し、裸の凌辱を与えた。朝日は屈服した。朝日のトラウマとなった事件である。事件を機に多くの記者が朝日を去った。その時からの生き残りが高原操だった。
 不本意な社論の急転換があった。「編集局の一部、とくに整理部に不満と反発がくすぶり続けた。みずからも不本意な急旋回をやむなくさせられた首脳部の説得には力がなく、困りはてたあげくついに人事の大異動という消火作業をあえて断行せなばならなくなった。その際、慰留を振りきって退社を選ぶものも出た」。整理部の太田梶太は退社後、月二回刊のタブロイド紙『現代新聞批判』を十年間出し続ける(『現代新聞批判』は復刻版が戦後五十年の節目に出版された)。高原も簡単に引き下がったわけではなかったと後藤は書く。「国際連盟脱退に当っては、繰り返しその不可を訴え、一方連盟へ向っては、最終決定を見送り、<満洲国>をたなあげして冷却期間を置け、と望んでやまなかった。(略)これらにはみな現状肯定の言葉がちりばめられており、引かれ者の小唄といってしまえばそれまでであるが、最悪の局面を一歩での手前でくいとめたいとの切実な願望がこめられていた」。緒方竹虎によって社説の東西統一が行なわれ、高原が事実上引退となったのは昭和十一年(一九三六)五月だった。
第19回   第19回
右:後藤孝夫『辛亥革命から満州事変へ――大阪朝日新聞と近代中国』
(みすず書房 1987)
左:池田一之『記者たちの満州事変――日本ジャーナリズムの転回点』
(人間の科学社 2000年)

 毎日新聞出身で、ジャーナリズム史を講じた池田一之明大教授は『記者たちの満州事変――日本ジャーナリズムの転回点』という遺著を残した。その中で、関東軍の謀略と見抜いて出稿した例外的な記者の仕事を紹介している。奉天新聞社長兼新聞連合奉天支局長の佐藤善雄と大阪毎日大連支局の今尾登である。佐藤の原稿は検閲に引っかかり幻の原稿となった。佐藤は社長を退任する。今尾は満鉄線路の破壊現場に立って、「支那兵がこの暴挙を敢えてしたのは一般に諒解に苦しんでおるが」と書いた。これは九月二十一日の東京日日新聞に無事掲載された。お咎めはなかった。もう一人、満洲日報の主筆・竹内正巳が「筆禍事件の為め引責退社」している。柳条湖に関する号外が筆禍の原因だった。「関東軍にとって不都合なことが書かれており発行禁止となったともいわれた」。武内の属した満洲日報は社長が松山忠二郎、編集局長兼主筆が竹内で、二人とも白虹事件で朝日を退社した幹部だった。東京支社長の井上正明も同時に朝日を辞めた記者で、満洲日報の元朝日マンはまたも虎の尾を踏んだのだった。満洲日報は満鉄の機関紙である。この件で、松山は「報酬月俸金壱千円を金八百円に、機密費月額金参百円を金貳百円に減額」となった。
 池田が『記者たちの満州事変』で力を注いでいるのは先輩記者で、事変従軍中に殉職した茅野かやの栄記者の足跡を辿ることであった。密偵と間違えられての無惨な死で、池田は死の六十年後に現地まで検証の旅を行なった。朝日と毎日の二大紙の過激な競争の犠牲者だった。
 朝日でも満洲事変の犠牲者が二人出ている。前出の荒垣秀雄は戦後の「天声人語」子だから当然犠牲にはなっていない。しかし、生命の危険はあった。『満洲・上海事変全記』の手記にある。記事を送ろうにも電信も電話もない戦場で、どうしようもない。「第一報を打つためには、五六里も歩いたり、滅火の貨物列車で一人ポツネンと支那人の中にまじったり、馬賊から商売替えしたばかりの帰順兵におどかされたり、蒙古犬の一群にとり囲まれたり、屡々生命の危険に遭遇した。そう安々と通信ができたのだと思われては助からない。だから戦時の新聞なぞ安い物だ」。新聞は安過ぎる! おそらく生命の値段に比べてとこの未来の「天声人語」子は言いたいのだろう。記者というより、コラムニストの皮肉な観点である。荒垣のチチハル戦はやっと終わった。「私は二十数日間風呂にも入らず、靴も脱がず、不眠不休だったので、ホッと一息入れようと気をゆるめているところへ、本社から急電がきた。戦況報告講演のため直ぐ帰れというのである」。内地での戦争報道講演会も新聞社の拡販には欠かせないものであった。
 武内「関東軍司令官」は、昭和七年(一九三二)秋からジュネーブ特派員となり、松岡洋右に同行して国際連盟へと向かった。ジュネーブでは旧知の石原莞爾も一緒だった。「松岡洋右ジュネーブ会議全権とは、朝夕レマン湖畔を一緒に散歩いたし、楽しく有益でございました。松岡全権はよく活躍しました。後半に、語学に優れた斎藤博駐米大使の応援を得てからは、「もうこれで安心だ」と喜ばれました。(略)私は、昭和七年のクリスマスと正月休み中に杉村[陽太郎]連盟事務次長とドラモンド連盟事務総長の間にできた妥協案に、一時期待をかけたものですが、日本政府の拒絶で絶望いたしました。昭和八年三月二十四日の連盟最終会議の四十二対一の決議および松岡全権のサヨナラ演説、続いて三月二十七日の日本の連盟脱退となり、万事終わりとなりました」(『語りつぐ昭和史』、ただし事実の間違いは一部修正した)
 武内はその後、大阪朝日経済部長をつとめ、昭和十五年(一九四〇)に大政翼賛会経済部長、十七年に上海日本人経済会議所専務理事となっている。石原との交友は続き、石原の「東亜聯盟」誌に顔を出している。武内の足跡を見直すと、「朝日の関東軍司令官」というよりも「朝日の関東軍新聞班長」と呼んだほうが正確なのではと思えてくる。新聞班とは陸軍がマスコミ対策としていち早く設置した部署で、初代の新聞班長は日露戦争従軍記『肉弾』の桜井忠温少将だった。阿部慎吾「満洲事変を繞る新聞街」(「改造」昭和6・11)によると、陸軍は巧妙だった。「その新聞班員二名を陸軍省担当記者クラブである辛酉しんゆうクラブの特別メンバーとし、(削除)時に応じてクラブ員を潤おしていた。今度の事変でも、この新聞班がニュースを供給したり、親切に事情を説明したもので、外務省の役人などよりははるかに宣伝の術を心得ていた。そして、陸軍のやり方に対し、外務省の役人あたりがボツボツ反対の声を挙げると見るや、まだ忙しい最中の二十八日の夜、南[次郎]陸相が態々わざわざ都下の新聞の編輯局主脳部を官舎に招待し、所謂軍部の立場なるものの諒解を求めている」。(検閲で「削除」された部分には、具体的な饗応とかが書かれていたのだろう)。陸軍は硬軟双方から新聞を責め立て、籠絡していたのだ。
『新聞と戦争』取材班は、朝日に「別の道」はあったかと問いかける。あった。最大のチャンスは九月二十一日だった、と結論している。「朝鮮軍はこの日、軍中央からの命令なしに独断で満洲に入った。天皇の統帥権を侵す行動だ。新聞が批判の声をあげていれば、事態の不拡大を望む民政党政府や宮廷グループの動きも誘発し、出先の軍の独走をこの時点で止められたかもしれない」
「越境将軍」林銑十郎朝鮮軍司令官の越権を糺す、という道である。ここは大いに検討に値する、重要な問いかけであろう。