人気と実力を兼ね備えたカリスマ美術家たちはどのような学生時代を過ごしてきたのか。運命を変えた若き日の出来事とは。
延べ千人以上の美術家たちを取材してきたベテラン美術ライターが彼らの知られざるバックボーンに迫る!

第4回ゲスト 永山裕子(水彩画家)

ずっと絵を描いていきたい


——子供の頃からずいぶん絵を描くことがお好きだったそうですね。

永山 絵を描くことが好きでした。親が中学受験させたくて塾の夏期講習にも行ったのですが、初日に遅刻し一番後ろの席で、真後ろに置いてあった大型冷房機の直撃を受けて体調を崩してしまい、その夏は結局倒れたまま。親は私を勉強で頑張らせることを諦めました。その分、弟がすごくいい子だったので、周りの人が弟のことを褒めると「まぁ、お姉ちゃんで失敗したから」なんて、母親はよく言っていましたね。そんなことをチラチラ聞いて「あぁ、そうか。自分は期待されていないんだ」と思っていましたが、小学校4年から6年の時の音楽の先生が「裕子ちゃんはいいのよ、そのままで」と言ってくださって、その言葉に本当に救われました。かと言って、べつに暗い子だったわけじゃありませんよ。「やったー、受験しなくていいんだぁ」と思ってずっと遊んでいましたから(笑)。
第4回 永山裕子
「上野動物園で、やっとケーキがきて食べる瞬間に寝落ちしたそうです。
タイムマシンがあったらこの場に戻り完食したい」

——その頃、どんな絵を描いていましたか?

永山 マンガとか、女の子の絵です。当時、塾で隣同士だった女の子から40年ぶりにFacebookで連絡が来て、私の描いた女の子の絵をいまも何枚か持っていると言うんです。見せてもらったら、女の人がタバコを吸っている絵でした。

——ませてますねえ、タバコの似合う女性に憧れていたとか(笑)。でも、そんなに長いこと持っていてくれるなんて、すごく上手だったんですね。

永山 いやいや。ただ、「上手ね」って言われると嬉しいじゃないですか。子供の頃、寂しいとか不安だとか、親の愛に飢えていたとか特になかったんだけど、唯一、絵を描く紙がないと不安でしたね。

——じゃあ、常に自分の周りに紙があるような状態で。

永山 中学校の先生をしていた叔父や叔母が、答案用紙や問題用紙に使ったわら半紙の余りを、ダバっとまとめてくれたりして。その裏に描くのが大好きでした。

——中学校では美術部に入ったんですか?

永山 美術部ではなく陶芸部でした。絵は好きで自分で描いていました。

——美術の道を目指すきっかけは何だったのですか?

永山 小学校の時、よく自分が会社にいる夢をみたんです。周りの人はサクサク仕事をこなしているのに、自分の机だけ書類の山になっているという。幼い時から何となく、「自分は会社では役に立たない」ってことは、わかっていました。ずっと絵を描いていきたいなあと漠然と思っていたのですが、中学3年の春、進路についての三者面談があって、担任の先生から「おまえは将来何になりたい?」 と聞かれた時、「映画の看板を描く人か、お風呂屋の富士山を描く人になりたいです」って答えたんです。隣にいた母を見たら、絶句していました。

——そう思ったきっかけは何だったのですか?

永山 銀座とかに連れて行ってもらうと、よく映画の看板を目にしたんです。下手な看板絵だと、顔の影がヒゲみたいに青くなっちゃったりしてね。「あの吉永小百合、ヒゲ生えてる!」って。そういうのを見て、「絵をみんなに見てもらえることって、楽しいだろうな」って思ったんです。実物そっくりに描いてあることも、当時は「凄いっ!」って思ったし。

——担任の先生はどんな反応でしたか?

永山 「はっはっは、そうか、わかった」と言って、それ以降、色々応援してくれました。たとえばある日、「おまえ、5、6時間目を公欠にするから、ココに行ってこい」って、誰だか知らない人の個展の案内状を渡され、セーラー服を着たまま銀座の画廊街を一人彷徨ったこともあります。やっと探し当てたギャラリーに入って、そこで談笑しているおじさん達に、「将来映画の看板を描く人か、お風呂屋の富士山を描く人になりたいのですが、どうしたらいいんですか?」と聞きました。そうやって聞くことが先生との約束だったので。そうしたらおじさん達は笑いながら、「そうかー、それじゃあ藝大に入ればいいよ」って教えてくれました。

——面白いですね。

永山 またある時、先生が「明日、汚れてもいい作業服持って来い」と言うので、次の日、作業服を持って行ったら、「昼からココに行って手伝って来い」と地図を渡されたんです。先生の家の近くの銭湯の地図で、行ってみるとおじさんが富士山を描き直していて、それを手伝わせてもらいました。手伝いと言っても、道具や材料を運んだり混ぜたりするだけでしたけど。「こんなに早く夢が叶った!」って、とても感動しました。

——良い先生ですね。今の時代では問題視されそうだけど。そして永山さんが、応援したくなるキャラクターだったのでしょうね。

永山 勉強はさほど出来ない生徒だったのですが、授業中、先生の顔をキラキラした目で見ていたらしく、各教科の先生達にいろんな「係」を命じられました。テストの点数を見た後、「裏切られた」とか言われましたけど(苦笑)。その担任の先生、結構スパルタで厳しかったんです。でも「私がこういうことをやりたい」って言うといつも応援してくれました。この先生、実は詩人だったんですよ。特に有名じゃなかったみたいだけど。授業が始まる前にいつも5つか6つ詩が書いてあるわら半紙を配り、それを生徒に読ませて、どの詩が好きか感想を言わせるんです。草野心平とか有名な人の詩が書いてある中に、時々出てくる全然人気のない詩人が……、私たちは意味がわからないとか、めちゃくちゃに言いたい放題、それがその先生の詩でした(笑)。

——それはショック。

永山 自分が絵描きになってみて、改めてあの時の先生はすごいと思いました。私だったら、「私の前で感想言わないで!」って思っちゃう。
第4回 永山裕子
中学3年生。「手前で足を出しているのが私です。
この直前、走り回っていて玉砂利に足をとられて転び、
膝から流血していました。なぜ後列に立たなかったのか」

藝大油画科に現役合格


——生徒にも厳しいけど、自分にも厳しい方だったんですね。そして中学卒業後は都立の芸術高校デザイン科に進学、しかし3年の夏に油絵科に転科されています。その辺の経緯を教えてください。

永山 デザイン科3年の時に「油画科なら藝大に現役で入るチャンスがあるぞ」と先生に言われて、その時、自分の描きたい絵がもう決まっていたので、「こういうことをやりたい」って話したら、「藝大の油画科は好きなことをして良いから」と。父から浪人はNGと言われていたし、「じゃあ油絵に賭けてみよう」と覚悟したんです。高3で突然、転科を申し出たので親が学校に呼び出され、三者面談になりました。そこであらためて「自分は油絵科に行く」と言ったのですが、母は「デザインだったら仕事になるのに、油絵なんて、あなた何言っているの!」って。面接が終わった後、母が廊下に出ると、私に転科をすすめてくれた先生がいて、「何十年後かに、今いるクラスの中で、銀座で個展できるのは永山しかいないと思う」と母に仰ったそうなんです。そんなことずっと知らなかったのですが、2年前に母が突然、「そういえば、傍嶋先生って覚えてる? 実はあの時ね……」って話してくれて。母は今、介護ホームで元気にしていますが、思い出してくれた母にも、そして傍嶋先生にも本当に感謝しています。自慢話でごめんなさい。

——良い話ですね。そして傍嶋先生の眼は確かでしたね。画力もですが、他の生徒と「何か違う」と思わせるところがあったのでしょうね。

永山 いえいえ。先生は何百人もの学生を藝大や美大に送り込んできているので、私は特別ではありません。才能云々より、絵を描くのが好きだったから、そのことは理解してくださっていたと思う。朝はいつも一番に登校して、アトリエでデッサンをしていました。学校に行けばアトリエで思い切り絵を描けると思って。

——少しでも長い時間、楽しいことをしていたい。

永山 そう、上達しようとか、受験とか、そういうことではなくて、本当に描きたくてしょうがなくて。絵描きになろうとか、一生絵を描いていこうっていう強い意志は特に持っていませんでした。それは藝大に入ってからも同じ。だから自分から売り込むとか考えたことがない。近頃は、そういうことに熱心な人も増えているでしょう。

——そういう傾向はありますね。「何を描きたい」より、どうしたらウケるのかっていう戦略が先に来ちゃうと、本末転倒だと思いますけれどもね。ただ、いくら画家でも、永山さんのように描きたい欲求が全く途絶えない人というのは、少ないようにも思います。

永山 気づくと周りの作家は同じような人間が多いように思います。

第4回 永山裕子
高校時代。「何の目的でこんな写真を撮ったのか思い出せませんが、
これが日常だったのでしょう」

——藝大受験の予備校はどこに行ったのですか。

永山 高3の9月から新宿美術学院に通いました。傍嶋先生が新美でも教えていたんです。先生は空手部の師範で、私は空手部のマネージャーだったので、部活が終わると一緒に新美に行ったりしていました。

——高3の9月から予備校通いと言うのは遅いスタートですね。

永山 芸術高校だったから、授業だけで2浪ぐらいの分量は描いていたと思います。

——その時代、油画科に現役で受かるのはかなりの少数派ですよね。

永山 私が入学する前までは55人中、現役は2、3人程度でした。それが私の学年では7人もいて、なおかつ女子も多かった。福田美蘭も現役で同級生です。今の藝大は女子の方が多いそうですね。昔の感覚で言うと、ちょっと信じられない。

——福田美蘭さんがクラスメイトだったんですね。

永山 そう、美蘭とは仲が良くて、二人とも太っていたので「ボテロシスターズ」なんて呼ばれていました。2人で飲みに行ったりすると「あなたはずっと絵を続けるの?」と聞くから、私は「結婚もしたいし、子供もほしいな……」と答えて。すると「私はずっと描いていくからね!」と言われました。そんなこと言ったのに、私はなぜか今もずっと続けている。そして美蘭も、本当にそのまんま毅然と続けていますね。
第4回 永山裕子
大学1年の頃。左は福田美蘭さん。

——藝大での学生生活は楽しかったですか?

永山 大学時代は、40年近くも経つのにディテールをはっきり思い出せるくらい、色々記憶に残っています。頭の中に一番詰まっているかもしれない。男女問わず友達も沢山できたし、その付き合いも濃くて、今に繋がっていることが多いです。でも、藝大に入った当初は本当にヤバいと思いました。

——「ヤバい」というのは?

永山 美術の知識です。例えば同級生達が、「ヨーゼフ・ボイスが来るぞ!」「クリストだ!」「何時から並ぶ?」とか言っているのを聞いて、ボイスが誰だか知らないけど「一緒に行く!」って。行ったところでチンプンカンプンだったけど(笑)。ある時「伊藤若冲を見に行かない?」ってクラスの男の子が言うから、またしても「行く〜」ってついて行ったら、車持ってる子が私達4人くらいを乗せて高速を走りだしたんです。普段は放課後、みんなで銀座の画廊に繰り出していたので、車で銀座に行けるなんてラッキーと思っていたので、呑気に「あれ?どこ行くの?」って聞いたら、「京都だよ」って。若冲の展覧会がどこでやっているのか、みんな当たり前のように知っているのに私だけ知らなかった。そのまま高速で飛ばし、浜松かどこかのインターで家に電話したら、ものすごく怒られました。それぐらい私は知識に疎かったのですが、クラスメイト達のおかげで色んなものを見たり体験出来たりしました。
第4回 永山裕子
大学時代。制作風景。

和紙を使った抽象画


——大学時代はどんな絵を描いていたのですか?

永山 和紙を用いた抽象的な作品を描いていました。ですから、油絵はほとんど描いてないんです。予備校で24枚描きましたが、大学では1枚だけ。その絵を持って先生達と面接したのですが、その時に「私は描きたい絵があって、それを描いてもいいですか、それは油絵じゃないんですけど」と言ったら、「いいですよ」と。

——高校時代からずっとイメージしていた「いつか描きたい絵」のことですね。

永山 インスピレーションの発端は、高校3年の時、修学旅行で行った京都の博物館で観た能装束の展覧会でした。お能の豪華絢爛な衣装と下絵が展示されていたのですが、私はその下絵に心を奪われたんです。慣れ親しんでいた西洋のデッサンでは、失敗すると鉛筆の線を消しゴムで消して「ゼロ」にして、次に進みます。しかしその能装束の下絵は、失敗した箇所に和紙が重ねられ、その上から墨が引かれていました。日本の下図は、失敗したことが「無」にならず、下から透けてみえる。前の形が見えるから、何故、どこがいけなかったのかを学べます。それによって、より良い形を生み出せるのです。「こういうデッサンの描き方があったのか」と、とても嬉しくなりました。昔から障子に穴があくと桜やもみじの形の障子紙をあてがいますよね。子供の頃、私もそれを沢山貼って欲しくて、弟とわざと障子に穴をあけたりした思い出があります。日本人の美意識が伝わってくる古来の素描に魅せられて、大学では和紙を使った抽象の絵を手がけるようになりました。
第4回 永山裕子
「大学でラグビー部のマネージャーをしていた時、
部員の三沢(厚彦)君にモデルになってもらった。
具象を描いてなかったはずなのに、なぜだろうと不思議な写真です」

——絵具類は何を使っていたのですか?

永山 墨とか、土から作った絵具。物を拾うのが好きなので、それをコラージュしてみたり。

——アブストラクトの作風は結局、20年以上続いたわけですが、ある時から、現在のような水彩画を発表されるようになりました。そうなった経緯について教えていただけますか? 学生時代の話からは逸れますが。

永山 大学を出てから予備校やカルチャー教室で教えていたのですが、ある時、カルチャーの講座で水彩画を教えることになったんです。水彩を使うのは中学校ぶりでしたが、「基本的なことを教えるんだったら何でも同じだ」と思って。そしたら私が授業で描いたものを、生徒さんが「欲しい、買いたい」って言い出して。でも私、自分の絵に値段つけて売るっていうのが、本当に苦手なんですよ。それに自分の中でも「私はアブストラクトをやってるので、お花とかは絶対描きません」っていう気持ちがあって、ギャラリーに水彩画の展覧会を打診されてもずっと断っていたんです。でもある時そこで、藝大で一つ上のエサシトモコさんと2人展をすることになり、抽象を出したのですが、私は一点も売れなかった。なんだか申し訳なくなっちゃって、「じゃあ私、一度だけ水彩画の展覧会やります」と言って開いてから、ダーッと現在まで来てしまったという感じです。
第4回 永山裕子
「大学構内のギャラリーでエサシトモコさんと二人展をした時。
展覧会のタイトルは 『EXHIBITION』今となっては恥ずかしい」

——周りの人たちは、驚いたんじゃないですか?

永山 しばらく水彩は友達に見せなかったし、内緒にしていました。挑戦することを止めて楽な道を選んだと思われるのが嫌だったんです。でもある時に、抽象のほうの才能は26、7歳くらいがピークで、もうこれ以上は無いなって思うようになりました。今でもまた抽象を描け!と言い続けてくださる画廊の方もいます。まだどうにか和紙に触って模索していますが。美蘭みたいに、自分の仕事を真っ当に続けている人は、本当に偉いな、凄いなと思います。でもね、半分ぐらいは開き直っていますよ。抽象の仕事の時は自分の中の螺旋階段を降りていく感じで制作していたんです。「自分だけがわかればいい」ってずっと思っていた。画家への質問によく「自分と社会との関わりは?」っていうのがあるけど、私の場合、抽象の時代は「全くない」状態でした。当時はそれで幸せだったし。でも水彩を描き出したら、「言葉がわからなくても、絵で伝えられる」ってことを実感したし、社会の不穏な動向に対する自分の気持ちを、花や静物で暗喩の表現で伝えることも出来る。描くことで社会と繋がれるんだとわかってびっくりしています。

——抽象から水彩画に移行することで、世界が広がった部分がありそうですね。

永山 「お前は閉じこもっていないで勉強しろっ」ってことだったのかもしれない(笑)。

——永山さんの水彩画には、「モチーフと繋がりたい、あなたのことが知りたい」という欲求がありますね。エロスがあって引き込まれます。生命感といっていいかもしれませんが、呼吸しているし、温度や湿度、光、香りなどが伝わってきて、五感が刺激されます。カメラアイではなく、自分の視覚と心を通過したエッセンスを描いているからリアリティがあるんです。抽象の時代の22年間は、見て描くということはしなかったのですか?

永山 ほとんどなかったです。すごく生意気なんだけど、リアルに描くことは出来るから、そこじゃないことをしたかった。例えば百合の花を一回描いたら、それをコンビニでコピーして、コピーしたものを転写するとか。で、そういう欲求がどんどん膨らんで色んなものをコピーし出しちゃって、イカとかね(笑)。もちろん直接ベチャってやったら怒られるから、ちゃんとジップロックに入れて布をかけてやりましたよ。そのうち剥製なんかもやったりして、出てきたコピーにペンで加筆して、それをまたコピーして。ある時イタチの剥製やら鳥やら色々コピーして、深夜気持ちよく家に帰ったら、「あれっ?剥製忘れた!」て気づいて。コンビニに戻ったら、紙袋の中に色々入っているのをコンビニの人たちが囲んで「キャーッ!!」って(笑)。そんな風でしたから、私の抽象しか知らなかった人達は水彩を見たとき驚いたと思います。


人生に与えられたギフト


——大学時代に影響を受けた先生や友人などいますか?

永山 さっき名前が出た福田美蘭はそのひとり。それから音楽科の子も面白かったですね。例えば「古池や蛙飛びこむ水の音」って言うと、作曲科の子がピアノ室で即興で曲を作ってくれたり。そういうのもすごく楽しかったな。それから恩師の彼末宏先生は卒業する時、「40になるまで描いてみてごらん。わかることがあるから」と言ってくださった。実際に40歳になった時に「まだまだこれからなんだな、やっと入り口に来た」って思いました。50歳になった時も同じように思ったから、あと2年で還暦ですが、きっとまた同じように思うんだろうなあ。先日、先生の31回忌があり、ずっとその間も先生の言葉を思い出しながら描いてきた ことに感謝しました。

——最後に、美術家になるために最も必要な条件は何だと思いますか?

永山 制作へのモチベーション、だと思います。最近の美大生と話していると、何を描いたらいいかわからないっていう悩みがすごく多い。でも、そこに関しては何にも手助けできません。ずっと画家を続けているような人って、やりたいことがあるから続けているわけですよね。私が武蔵美で教えていたとき、一ヶ月の集中ゼミで、怒涛のクロッキーゼミを実施していました。そこには、実に色んな人達がモデルに来てくれました。ダンサー、役者、歌手、パフォーマー、刺青だらけのレスラーまで。みなさんプロフェッショナルで、踊りや歌、演技を披露してくれ、学生たちはそれを必死に描き続けます。描きながらですが、その人たちと話しもします。絵以外にも、「これおもしろい」いうものに気づいたら、その子は幸せだと思うんです。美大って自由な部分もあるけど、結構狭かったりもするので、若いうちにいろんな世界の人たちに出会うことは、刺激もあるし面白いと思います。
 NHKでオンラインの水彩講座を始めたのですが、「身近にいる子どもを描こう」というテーマを出したら、88歳の女性が、「近くに子供がいないから、白黒写真に写っている小さい頃の自分を描きました」って言うんです。それを聞いて、「すごくいいなあ」って思いました。「モチーフ」って、「モチベーション」と同じような意味の言葉でしょう。モチーフを描くっていうことは、「やる気の出るものを描く」ということ。だから、その女性みたいに、「描きたくてたまらないものを見つけ出す」って、すごく面白いことなんですよね。私の方が勉強させてもらっている気がしました。

——たとえプロの画家でもモチベーションを持続させるための苦労ってあると思うんですよ。

永山 油絵はテーマが重厚なことも多いし、一枚の絵に何ヶ月も向かうエネルギーが必要。長編小説みたいなものですね。私が描く水彩画は、エッセイなんです。もっと短いかもしれない。描きたいものやシーンを1枚でも多く描きたい。今はとにかく、絵がずっと描けるということがありがたい。水彩が大好きです。絵を描くことは人生に与えられた喜び、ギフトだと思います。

——絵が好きだから、とにかく描いていたい。子供の頃からずっと変わらない姿勢ですね。
(10月8日、大塚アトリエにて)


*次回のゲストは小谷元彦さんです。


■美術家略歴

永山裕子 NAGAYAMA Yuko

水彩画家。1963年、東京生まれ。85年、東京藝術大学油画科卒業(安宅賞・大橋賞受賞)。87年、東京藝術大学大学院(彼末宏教室)修了。08年~10年・14年~16年、武蔵野美術大学 非常勤講師。17年~現在、嵯峨美術大学客員教授。初個展を86年真和画廊(東京)で開催、87年泰明画廊(東京)、90年Gallery WEBER(スイス)、直近では20年「永山裕子展 Spontaneous」Bunkamuraギャラリー(東京)、21年「永山裕子水彩と素描展」セントラルミュージアム銀座(東京)ほか個展多数。また、14年World Watermedia Exposition (タイ)、18年Fabriano in Watercolor(イタリア)ほか、世界的な水彩画のイベントに日本を代表する画家として多数招待されている。『透明水彩のテクニック 手順編』(グラフィック社)、『永山裕子作品集 Spontaneous』(芸術新聞社)など技法書、作品集の著書多数。大塚アトリエ主宰。

永山裕子 OFFICIAL SITE https://www.nagayamay.com
https://twitter.com/yuko_nagayama
yuko_nagayama
https://www.facebook.com/yuko.nagayama.7



■インタビュア略歴

㓛刀知子 KUNUGI Tomoko

1969年、山梨県甲府市生まれ。92年慶應義塾大学文学部卒業。出版社で25年間美術雑誌の編集に携わり、ジャンルを問わず多くのアーティスト達を取材。インタビュー回数は1000回超。現在は株式会社以心伝心の代表として美術書の編集、原稿の執筆をする他、NOBUKO 基金ARTコンクール「絵と言葉のチカラ」展の運営など、アートコーディネーターとして様々な活動を行う。

tomoko_kunugi
https://www.facebook.com/tomoko.kunugi.7