トップ   反骨の流行絵師の実像とは!? 文=近藤史人(ノンフィクション作家)

 世界に知られた「ウタマロ」。だが、その生涯を知る人は意外なほど少ない。喜多川歌麿(1753〜1806年)は、その人物像の評価という面では不幸な画家である。
 例えば、美術番組を多く制作するNHKでも、北斎や広重は何度も紹介しているにもかかわらず、歌麿だけは何故か30年近く取り上げられない儘であった。聞けば、歌麿の画業は春画なしでは語れないと考え、企画化するのが躊躇されたのだという。官能の美人を描き、枕絵でも知られた歌麿は、美術ジャーナリズムだけでなく研究者の間でも、どこか「正統」でない存在として貶められ、人と作品が丹念に辿られることが少なかった。
 その不幸に輪をかけたのは、歴史資料の不在だった。江戸時代半ばに一世を風靡したといっても、町絵師という身分は高くなかった為、生涯を知る手がかりはほとんど残されていない。確実なのは、菩提所の専光寺の過去帳から他界したのが文化3年(1806年)だと判ったこと。その他は、いつ、何処で生まれたかも不明である。
 歌麿とはどのような絵師だったのか?
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禁令を逆手に絵師として成長  
 私が思い浮かべる歌麿とは、描く妖艶な美女とは裏腹に、誇り高い硬骨の男の姿である。
 歌麿が活躍したのは、松平定信による「寛政の改革」の時代だった。町人が勃興した田沼時代を受けて、定信は、身分制社会を再構築し、綱紀粛正を図る数々の改革を断行した。その改革の標的の一つとなったのが、歌麿だった。当時の幕府による禁令を見ると、歌麿が対象としか思えない触書が矢継ぎ早に出されていることがわかる。その統制をある時はしたたかにくぐり抜け、ある時は反発し、絵を描き続けたのが歌麿だった。しかもその作品は禁令が出るたびに新しい表現を獲得していった。政治に抑圧されながらも、逆にそのことで絵師としての自らを成長させていったのが歌麿ではなかったかと思えるのである。
 まず注目したいのは、「美人大首絵」である。「美人大首絵」とは、女性の姿を半身像で描いた浮世絵を指す。専門家ではない我々が浮世絵と聞いて想像するのはたいていこの「美人大首絵」なのだが、実はこれは歌麿が初めて生み出した様式だった。それまでは女性の姿は群像や全身像でしか描かれていなかったのである。
 この歌麿の独創はどのようにして誕生したのか?作品を年代順に並べてみると、「美人大首絵」が初めて描かれた寛政四年という年が奇妙な年であったことがわかる。その前年寛政3年は、作品が全く残されていない「空白の1年」となっているのである。
 当時の歌麿は蔦屋重三郎の店から浮世絵を出版していた。蔦屋は遊郭・吉原の評判記、『吉原細見』を売り出して人気を得た板元である。出版する絵本や浮世絵は、豪華な色使いや、刺激的な世相風刺が話題となり次々とベストセラーを送り出していた。店には、山東京伝らの人気作家や若い日の滝沢馬琴などが出入りし、当時の江戸文化人サロンの中心となっていたが、松平定信にとっては、蔦屋サロンこそ統制の対象となるべき存在であった。寛政二年、幕府は「絵本絵草紙類までも風俗の為に相成らず、猥らがましき事など勿論無用に候」との禁令を出し、歌麿の豪華絵本などが出版停止処分となった。翌寛政3年には、山東京伝の洒落本が禁令に触れ、蔦谷は身代半減の処罰を受けた。
 「空白の1年」寛政3年は、歌麿にとっては、自らの絵が出版できなくなったばかりか絵を出してくれる板元も処罰され、まさに絵師としての危機に晒された年であった。
美人大首絵の効果  
 この年、歌麿が何をしていたのかを知る確実な資料はない。だが、1年の沈黙を経て蔦屋から売り出された「美人大首絵」は歌麿の戦略を語っている。それまでの美人画は全身像で描かれた為、魅力的に見せようとすれば衣装の色や背景に華やかで多彩な色を使うしかなかった。絵を華やかにすればするほど、質実を目指す改革に逆行するものと見られてしまう。しかしそれを半身像にすると、見る人の目は女性の表情に向かい、色数が少なく衣装も地味であっても、表情の魅力だけで人を引きつけることができるようになるのである。さらにそれは絵師に新しい境地をもたらす。それまでの浮世絵の女性は皆同じ顔で類型的だったが、歌麿だけは個性を描き分けられるようになったのである。この「美人大首絵」こそ改革の圧力の中で歌麿が生み出した新しい表現ではなかったのかと私は思う。
 この時に形作られた歌麿と幕府の対立の構図は、以後さらに激しくなっていく。
「美人大首絵」という発想を得たことで、歌麿は、市井の町娘を描きはじめた。「当時三美人」など歌麿の代表作と言われる傑作が次々と誕生し、モデルの町娘も大人気となった。歌麿の絵に描かれた当人を見たいと、人が殺到する有様だった。
虎の尾を踏む  
 この人気を危惧した幕府は、浮世絵に人物の名前を書き込むことを禁じた。これに対し歌麿は「判じ絵」で対抗する。しかし、その「判じ絵」もすぐ禁止される…この頃、歌川豊国ら多くの絵師が活躍していたが、禁令に抵抗したのは歌麿唯一人だった。
 当時描かれた美人画には、画面の片隅に歌麿自身のこんな言葉が記されている。「面作うつくしく 媚に愛を含すれば おのつから覧人の心動く」女性を美しく描くことにかけた絵師の矜持。それが歌麿に幕府への抵抗を続けさせたのだろうか?
 だが、その矜持にもやがて終焉が訪れる。寛政12年(1800年)幕府はついに、歌麿の絵の根幹である「美人大首絵」を禁止するのである。新たな境地を求めた歌麿は、役者絵というジャンルに手を染めた。享和3年(1803年)市川八百蔵を描いた役者絵がある。歌麿にしては凡庸な絵だが、その絵に歌麿は「わるくせをにせたる似づら絵にハあらず」と書き込み、人物はあくまでも美しく描かなければならないと主張している。この言葉は、明らかにかつて同じ版元の蔦屋からセンセーショナルなデビューを飾った天才写楽を意識しているとしか思えない。しかし、その意欲とは裏腹に、この絵は、写楽のように評判を呼ぶものとはなり得なかった。ここに歌麿の焦りを感じるのは深読みに過ぎるだろうか。
 翌年、歌麿はついに虎の尾を踏む。太閤秀吉を描いた浮世絵が禁令に触れ入牢3日、手鎖50日の刑を受けるのである。遊興する秀吉の姿が時の将軍家斉を批判したと見なされた為とも言う。
 刑に服した歌麿は今までになく気弱な男に変わっていた。山東京伝が見舞いに訪れたとき、それまで見下していた板元たちを気遣う素振りをみせたという。一方京伝から歌麿の変貌を伝え聞いた板元たちは歌麿の命がもう長くないと感じ、踵を接して絵の注文に訪れた。歌麿はそれまで以上に多作になり、おそらく絵を描き続けた疲労から、2年後に生涯を閉じた。50代半ばの死だったと言われている。
 多くの美人画に混じって、1枚、歌麿ならではの自画像が残されている。「高名美人見立て忠臣蔵」。背景の柱に「求めに応じて歌麿自らを写す」と書かれた前に細面の優男が女へと手を差し伸べている。これが歌麿自身である。その、か弱げな表情の奥に秘められていたのは、女を描くことに生涯をかけた誇り高い芸術家の姿だっただろうか。


『スポルティング・コレクション歌麿』解説書より転載