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    ■九州大国立公園
 別府を起点とする広域観光は、城島高原や由布院、耶馬渓などの後背地から、より広域へと展開、九州全体への広がりを目指すことになる。構想の中心にあったのは、遊覧バス事業に尽力し、由布院など別府周辺に所在する名勝地の開拓にも尽力した油屋熊八である。
 昭和2年7月6日、『大阪毎日新聞』が企画した「日本新八景」のひとつに別府が選出された。これを受けて8月14日に掲出された別府の新聞広告において、熊八は「別府温泉の力強いことは奥の院の広いこと」と書いている。加えて、別府から阿蘇、雲仙までを連結、さらに高千穂などを加えて、九州をひとつの国立公園としたいと提唱したという。
 おりから国立公園の選定に向けて、全国各地で運動が盛んになり始めた時期である。別府の将来的な発展方策を見据えた場合、瀬戸内海に面しているという地政学的な有利さを活かしつつ、別府港を、いわば九州の玄関とすることが不可欠という判断があったに違いない。そのためにも、主要な景勝地を束ねて「九州国立大公園」を実現するべきだと考えるにいたったのだろう。
 熊八はこのアイデアを実現する最初の手だてとして、別府から九州の主要都市に連絡する道路網の建設が必要だと考えたようだ。久住町の有力者であった親友の工藤元平と手を組んで、別府から久住、阿蘇、さらには雲仙、長崎までを連絡する観光ルートを提案する。昭和4年1月20日、二人が提唱した九州を横断する遊覧道路の建設構想が具現化に向けて歩み出す。大分・熊本・長崎の各県と沿道の主要市町村を巻き込んだ「九州横断国際遊覧幹線期成会」が設立されたのだ。
 この動きを受けたものだろう、大阪や神戸から多くの行楽客を運んだ大阪商船も、別府を起点とする広域観光を意識するようになったようだ。昭和12年以降、『別府へ! 別府へ!』と題するパンフレットでは、別府の観光地を詳細に紹介したあと、「別府を中心とした観光地御案内」と題して頁を割いている。そこでは由布院・耶馬渓・宇佐神宮など、比較的、近郊に所在する観光地に加えて、杖立温泉、久住高原や飯田高原、「九州アルプス」と呼ばれた久住山を主峰とする山々、水郷として知られた日田、森町、風連鍾乳洞、阿蘇山、霧島などを紹介する。それぞれの景勝地まで、汽車や自動車で別府からどれほどの時間が必要かを記載している。
   
『別府へ 別府へ』表紙
  「別府中心遊覧圖」 「別府を中心とした観光地御案内」
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     昭和14年版『別府へ! 別府へ!』の冒頭では、「阪神、四国、九州を結ぶ大阪商船の別府航路は世界に類を見ない海上の公園、瀬戸内海を横断するもので、この航路はまた東京、阪神、別府、阿蘇、雲仙、上海等をつなぐ国際観光ルートにも当つてゐます」と書いている。    
    ■国際観光と博覧会
 別府から阿蘇、さらには雲仙・長崎までを連絡する国際観光ルートが構想されるなか、別府市で2度目となる本格的な博覧会が企画される。鉄道省の施策として国際観光の重要性が謳われた時期でもあり、また昭和10年9月、亀川・朝日・石垣の一町二村が別府市と合併を実施したことを記念するイベントという位置づけもあった。『別府市主催国際温泉観光大博覧会報告書』(別府市、昭和12年)で、博覧会長を兼ねた小野廉市長は、次のように述べている。
 「時恰も鉄道省国際観光局では東洋唯一の景勝地日本の真価を中外に発揚して国際観光地たらしめ、もつて観光事業の経済化と有力な国際親善工作に資せんとする折柄、本市に於ては亀川、朝日、石垣の一町二村との合併の議興り、昭和十年気運熟してこれら温泉郷を一丸とした大別府の合併成り、之れを契機とする温泉と観光のもつ国際的経済価値への着眼は有力な別府市の新産業部門とするに足る確信を得ると共に、本邦随一の国家施設たる泉都計画施行地となるに及び大温泉観光都市建設を目標とする第三階梯に力強い第一歩を印し全市民をしてますます未来の飛躍進展に対する熱意と、層一層の迫力を加へるに至つた。」
 小野を中心とする博覧会の主催者は、観光業を「文化的産業」として組織・体系化することで、「消費都市」として発展した別府を「産業都市」へと転じさせようと考えたようだ。「趣意書」には「…現代温泉観光事業の組織、体系の整備に努め観光事業が産業として持つ偉大なる経済的、文化的価値を宣揚し以て新産業部門の開拓に寄与し併せて産業文化の成果を一堂に集め其の将来の発達に資せんことを期せり」と書いている。昭和11年に催された「躍進日本博覧会」(岐阜市)、「輝く日本博覧会」(西宮・甲子園)、「工業博覧会」(東京・上野)、「日満産業博覧会」(富山)、「博多築港博覧会」(福岡)などを関係者が視察、別府での博覧会開催も「必然大成功裡に了する」と確信を得たという。
 ただ各都市が競い合って博覧会を開催しているなか、経済力のある大都市での大規模な博覧会に対抗する術が必要だと考えたようだ。そこで「恰も大デパートの牙城に迫る専門商店の戦術に等しい経営ぶり」が別府に残された、唯一の「賢明な方策」であると自覚した。そこで天恵である温泉を利用、「観光熱高潮の時流に乗る経営方針」を確立するとともに、「外人観光客の激増による漸次濃度を増す本市の国際色」を強調するべく、「国際」「温泉」「観光」を柱とする博覧会が企画された。
   
    ■躍進九州
 「国際温泉観光大博覧会」は、昭和12年(1937)3月25日から50日間にわたって、別府公園一帯3万8000坪を会場として開催された。 有料入場者46万7852人を数えた。
   
「国際温泉観光大博覧会」ハガキ
     会場内には、「六大館」と位置づけられた温泉館・観光館・産業本館・陸軍館・海軍館・電気科学館・大分県館の各館のほか、美術館・宗教館・台湾館・朝鮮館・南洋館・農具機械館・特許実演館・善光寺館・日の丸館・三偉人館・別府館・世界一週館・ミイラ館・海女館・歴史館・ラヂオ館・非常時国防館などの展示館のほか、野外演芸場や矢野サーカス演技場などが特設された。
 主要な展示館である温泉館は「大温泉博物館」とでも呼ぶべき構成である。飲泉スタンド、吸泉所、泉浴場、トルコ風呂、ロシア風呂、気泡浴室、発汗浴場といった各種の温浴施設のほか、間欠泉のジオラマ、温泉研究器具、諸外国の温泉資料などが展示された。また別府温泉の巨大模型や、日本各地の温泉を紹介するジオラマなども用意された。 
 また「観光館」では、入口に瀬戸内海を紹介する大阪商船の出展があり、別府港に船で入るという体裁で館内に誘われる。その後、鉄道の各線に乗って、別府を起点に九州を周遊するように展示が工夫された。小倉・福岡・佐賀の各地を巡る「北廻り」、鳥栖・久留米から長崎に至る「中央線九大線廻り」、阿蘇・熊本・三角・雲仙に到着する「中央線豊肥線廻り」、高千穂・延岡・青島・鵜戸・霧島・鹿児島・桜島・八代・熊本を経由して長崎を結ぶ「南廻り日豊本線」などのルートごとに、各地の観光名所が紹介された。ここではパビリオンの平面図を紹介しておこう。
   
「観光館内配置圖」
     博覧会の主催者は、門司鉄道局・広島鉄道局管内の主要な駅の駅長を別府に招き、団体誘致と接客対策について意見交換の会を開催した。また宣伝を目的に、主要駅に看板を掲げるとともに、下関・博多両駅の旅客昇降口に「別府温泉の国際観光博へ」と記したネオンサインを点した。また宣伝映画を各地で上映、さらには博覧会の主題曲である「温泉踊り」の歌詞を公募、西条八十が作詞を担当した「別府行進曲」とともに楽曲を制作、コロムビヤ・レコードから販売した。この企画が好評であったようだ。さらに「別府囃子」「躍進九州」を題とする歌詞の懸賞を実施して曲を作り、今度はキングレコードから発売している。
 別府市が「躍進九州」という唄を世に送ろうとしたという点に注目したい。入選した「躍進九州」の歌詞を見ると、一番に「鉄の都」「黒ダイヤ」と八幡や筑豊をうたいこみ、二番以降で、博多、阿蘇、別府、長崎、宮崎、薩摩を誉め称え、「九州よいとこドント来い」と結ぶ。九州全体を観光地として売り出すうえで、温泉都市が旗を振る役割を担おうとした覚悟を見て取ることができる。
   
    ■空飛ぶビヤホール
 昭和初期には船便や鉄路に加えて、空路も別府への足となる。瀬戸内海を横断して、大阪から別府に至る航空事業が具体化したのだ。大正12年4月、川西竜三による日本航空株式会社が水上機を運用、大阪と別府を連絡する貨物輸送を開始する。のちに旅客の輸送も実施、別府港の近傍である的ケ浜に格納庫と発着場を設けた。ちなみに同社はのちに、逓信省所管の国策会社である日本航空輸送に合併吸収されることになる。
 いっぽう日本初の民間航空会社として知られる日本航空輸送研究所も、大阪と松山とを結ぶ路線を別府に延伸する。本連載の第56回でも紹介したが、昭和11年11月、同社は大阪と別府とを結ぶ路線に、海軍から5000円で払い下げを受けた大型飛行艇を新たに投入する。
 軍から購入した機体は、英国ハンプシャー州の港湾都市サザンプトンに本拠地を持つスーパーマリン社製、乗員5人の哨戒飛行艇である。海軍が研究用に運用していたものだ。日本航空輸送研究所は1万円を投入して民間旅客用に改装、乗員・乗客併せて19人の席改装を確保した。改造費用の一部を負担したビール会社にちなみ、「麒麟号」と命名された。
 日本航空輸送研究所は大阪商船ともタイアップし、片道を飛行機、片道を船で往復する連絡券を発売した。同社はまた、別府上空の遊覧飛行も行った。就航2年半で定期便と遊覧飛行を併せて、1万5000人ほどの搭乗があったという。地元の亀の井遊覧バスも航空部を設けて、遊覧のフライトを請け負った。温泉町の各所から立ち昇る湯煙を眼下に見晴らしつつ、天を舞うプロペラ機の姿はまだ珍しかったのだろう、往時の絵葉書に記録されている。
   
「別府温泉全景」
     「麒麟号」の機内ではビールを提供、エアガールを乗せて運航したことから「空飛ぶビヤホール」と人気を呼んだ。当初は週に1往復だけの運行であったが、翌年には便数を増やすほど、新型機は好評であったようだ。昭和12年2月23日の『大阪朝日新聞』に「大阪から別府のお湯へスピード空の旅 四月から一日往復」と題する下記のような報道が掲載された。
 「大阪、別府間の瀬戸内海温泉空路は今まで一週間に一度、毎土曜に下って日曜に上ることになっていたが来る陽春四月行楽シーズンを期して毎日往復することになる、これは同空路に就航している日本空輸研究所多年の念願で例の十六人乗りの巨艇サザンプトンの『きりん号』が近来非常な人気を呼んで毎航路ごとに殆ど満員続きであるのに気をよくしてこの機械にいよいよ理想が実現する運びになったもの、この『きりん号』とAB機四人乗りが毎日交代で往復することになっている ところが別府飛行場は別府市当局が港湾関係の都合で借してくれないことになり、当分大分海岸の仮飛行場に着水することに決定、日本空輸研究所では別府市当局に同湾着水、格納庫設置の交渉を進め、さらに将来別府空港を中心にして九州一周コース開設の計画をも進めている 毎日午後零時十分大阪木津川飛行場発、同三時四十分大分着、復路は大分午後零時二十分発、同四時大阪着になっている…」 
 交通手段の発達と移動時間の短縮を前提として、瀬戸内海を横断したうえで別府を経由地として九州全体に至る、より広域の観光ルートが構想された。空の旅においてもまた、別府をゲートウェイとして九州一周を目指す構想があった点に注目したい。
   
橋爪紳也(はしづめ・しんや)
1960年大阪市生まれ。大阪府立大学21世紀科学研究機構特別教授。大阪府立大学観光産業戦略研究所長。大阪市立大学都市研究プラザ特任教授。建築史・都市文化論専攻。工学博士。京都大学工学部建築学科卒業、京都大学大学院工学研究科修士課程・大阪大学大学院工学研究科博士課程修了。

著書に『明治の迷宮都市 東京・大阪の遊楽空間』(平凡社・筑摩書房)、『大阪モダン 通天閣と新世界』(NTT出版)、『日本の遊園地』(講談社)、『祝祭の〈帝国〉』(講談社選書メチエ)、『飛行機と想像力 翼へのパッション』(青土社)、『モダニズムのニッポン』(角川選書)、『「水都」大阪物語【再生への歴史文化的考察】』(藤原書店)ほか多数。

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